この時に當りて、藩政時代掉尾の大土木事業の起工せられしものあり。之を金澤城東卯辰山の開拓となす。この年度寧は福澤諭吉が著したる西洋事情を繙きて、歐洲に於ける貧民救濟と病院設備の状を記するを見大に感ずる所あり。乃ち卯辰山を開拓してこれを經營せんと欲し、三浦八郎左衞門賢高・不破亮三郎貞順をしてその事を掌らしめき。開拓は六月十一日に始り、十月山上の病院先づ成る。因りて之を養生所と名づけ、醫育の機關たる醫學局と藥草栽培の所たる藥園とを附屬せしめ、翌明治元年春城南の郊外笠舞村に在りたる撫育所を谿谷の間に移し、尋いで山巓に菅公の祠殿を營み、山麓に陶器・漆器・棉・棉布・羅紗・紙・顏料・瓦・油・蠟・茶・釘・鏡・刀劍・硯・錦繪等の工場商舖を設けしめ、劇場・旗亭・茶店等各種の娯樂機關亦之に交る。土工の初めらるゝや、市民冥加と稱して力役に從ふもの前後四五萬人に及び、歸厚坂・千杵坂・子來坂等を開鑿して往來に便じたりき。これ等のこと内藤誠左衞門の著せる卯辰山開拓録に之を詳述せり。本編に插入する卯辰山開拓圖會は、同所の錦繪工場に於いて製造販賣せられたるものにして、甦橋といふは今いふ天神橋なり。橋上に乘馬の人の洋裝して帶刀を肩より吊し、蝙蝠傘をかざして赤毛布を被たる者あるは、轉た當年に於ける西洋文物移入の跡を窺ふべく、少年の袂凧を擔ひて行く如きも亦地方色を見るに足る。 卯辰山開拓圖繪金澤市廣谷水石氏藏 卯辰山開拓図絵 城下淺野川方面に卯辰山の開拓せられたると同時に、犀川に在りては寳久寺河原の沿岸に土居を築きて一萬五千餘坪の地を得、こゝに民家の建造を許し、又石方役所を設けて石川郡小原山より伐出したる石材を貯藏し、海港金石より川舟を以て物資を市内に搬入せしめ、その歸航には則ち石材を積載して、之を藩外に輸出するの方法を講じたりき。 藩治改革の事情は上述の如く、恰も急湍の直流する觀ありしと同時に、朝暮權力の推移は飛泉の斷崖に懸るに似たるものありて、遂に將軍の大政奉還となるに至れり。是より先將軍慶喜は慶應三年六月四日を以て、本年七月以降三閲月の間列藩と交代して京師警衞の任に當るべきを加賀藩に命じたりしに、慶寧は同月十七日在京の邸吏を板倉周防守勝靜に遣はし、書を以て之を辭せんことを請へり。曰く、由來幕府は我が藩を遇すること凡べて尾水紀の三親藩と同じくするを法とせり。これを以て曩に文久三年三ヶ月更番警衞の命を受けたることあれども、三親藩の爲す所にあらざりしを以て先侯齊泰は之を辭せしに、幕府も亦その請を容るゝに吝ならざりき。その後元治元年慶寧の尚世子たりし時朝暮の命を奉じて入洛せしが、恰も病篤きに會したるを以て士卒を留めて禁闕の守護に當らしめ、齊泰も亦別に老臣を派し慶寧に代りてその任務を盡くさしめたり。次いで慶應元年幕府の長藩に兵を進めし時齊泰は請ひて京師を警衞し、二年慶寧の封を襲ぐに及び征長の役尚未だ止まざりしを以て又請ひて之に成したりき。抑輦下一旦變あらば速かに入朝奔走すべきは固より言を待たざる所なりといへども、我が臣僚の喜んでその任を盡くすは、幕府の我を遇すること常に他に異なるものあるを光榮とすればなり。然るに今我をして列藩と同じく三ヶ月更番の任に當らしめなば、從來享有したる特殊の地位を失ふに似たり。是を以て敢へて之を辭せんことを希ふと。然るに幕府は、その已むを得ざるに出でたる所以を諭して辭退を許さゞりしかば、慶寧は疾を以て長連恭を己に代はらしめ、連恭は七月四日家臣二百五十人を率ゐて金澤を發したりき。當時加賀藩は洛外岡崎村に四萬三千坪の地を借り、假舍を築きて兵士を收容したりしが、八月六日我が邸地として附與せられんことを幕府に求めしに、幕府は之を許したるを以て直に藩邸をこゝに興造せり。