この時に當りて京師の政情甚だ危急を告げ、遂に薩長二藩協同して徳川氏を排斥したるを以て、將軍慶喜は十月十四日上表して軍職を辭し、政權を朝廷に奉還せんと請へり。明治天皇乃ち詔して、凡そ事の諸侯に關するものは朝廷直にこれを裁斷すべしといへども、その他は尚姑く舊慣に依るべく、將軍職辭退の可否に至りては不日加賀以下列侯の入朝を待ちて諮詢したる後決する所あるべしと宣へり。是に於いて慶喜は書を以て慶寧の上洛を促し、二十五日天皇も亦日野大納言をして勅を傳へしめ、十一月中に慶寧の入朝すべきを命じ給へり。因りて慶寧は、十月三十日先づ銃隊馬廻頭原七郎左衞門種方に命じ、部下の士百人・番頭二人・使役三人及び銃隊物頭四人・部下の卒百人・炮隊物頭一人・部下の卒五十人・司令役二十六人を率ゐて京師に往かしめ、更に十一月朔日老臣本多播磨守政均に己に代りて上京すべきを命ぜしを以て、政均は同月六日家臣四百三十餘人を率ゐて金澤を發したりき。 今度依召上京處、病氣に付急々難致發途、其上存寄茂有之、旁御手前え上京申付候條、急速用意發途有之、諸事無泥可被取計候。指懸り別而大儀に存候。尤直に可申渡處、保養中に付以書面如此候。以上。 十一月朔日(慶應三年)宰相中將(慶寧) 本多播磨守(政均)殿 〔本多家文書〕