然るに京畿の風雲益暗澹たるものありて、到底藩侯の國に在るを許さゞりしを以て、慶寧は十一月二十九日疾を力めて金澤を發せしが、此の行横山三左衞門隆平・篠原勘六一貞等之に從ひ、弓槍二隊を設けず、唯西洋施條銃隊を備ふるのみなりき。然るに十二月九日慶寧入洛して建仁寺に舘したりしに、この日恰も朝議王政の復古を決し、會津侯の宿衞を罷め、代ふるに薩摩・土佐・安藝三藩を以てせしかば、都下の人心頗る恟々たるものあり。慶寧乃ち原七郎左衞門を遣りて禁闕を守護せしめ、次いで十二日本多播磨守政均を二條城に派し、書を慶喜に與へて速かに退京せんことを慫慂せり。その略に曰く、閣下曩に政權の奉還を請ひ、朝廷は列侯を召してその可否を諮詢し給はんとせり。これ實に國家の重大事なるを以て、余は疾を力めて勅を奉じ、本月九日京師に入りしに、この日朝廷遽かに議を決して一大變革を斷行し給ひ、事態頗る容易ならざるに至れり。この時に當りて閣下依然として二條城に駐り、爲に不虞の衝突を來すことあらば、徳川氏歴世恭順を旨としたる趣意を失ひ、忽ち朝敵の汚名を受けんこと必せり。是を以て閣下は速かに去りて大坂に赴き、然る後江戸に還れ。余もまたこゝに在りて朝廷に益する所なく、却りて閣下の累たらんとするを以て、請ひて直に歸國せんと欲すと。蓋し慶寧の意、元治元年長藩と連衡したるものは、彼を輔けて幕府の爲す能はざる攘夷を決行せしめんとしたるに存し、徳川氏そのものゝ運命を左右せんとする如きは夢にだに想はざりしなり。然るに長藩の方針は攘夷より變じて倒幕となり、薩藩と相謀りて自擅の行多く、幼帝を奉戴して慶喜を壓迫し、遂に父祖以來の軍職を辭するの止むを得ざらしめしのみならず、未だ一たびも列侯の巨擘たる加賀藩をその議に與らざらしめたるは、年壯氣鋭の慶寧が不平に堪へずとせし所なるべく、遂に慶喜に諭して薩長の術中に陷りて朝敵の汚名を蒙るの危機を脱せしめ、己も亦國に就きて徐に善後の策を講ぜんとせしなり。或はいふ、徳川氏萬一の際慶寧が兵力を以て之を助けんとの密約この時に成ると。かくて慶寧は同日上表して暇を請ひしに、朝廷岩倉具視を遣はして之を允し賜ひき。