御屆書 私儀、今般依召早々上京可仕處、其以來之病氣不得已御猶豫奉願上候通に御座候處、少々快方にも相向、誠に不容易大事件之儀に付、押て前月廿九日國許發途、當月九日著京仕、直樣傳奏・議奏へ以使者御屆申上置候。然處同日大御變革被仰出候御樣子に付、是迄之御役々をも御發止に相成候由にて、萬端伺等も可仕手筋も承知不仕。當今形勢を見聞仕候處、徳川内府(慶喜)に於ては被仰出之趣奉畏可罷在候へども、於家臣主君に反し候者可有之哉に承候に付、御幼君之御事にも被爲在候へば萬一心得違之者出來、於闕下動搖可仕儀も可有之候。右樣に相臨候時は如何にも奉恐入候に付、此段厚説得を加へ、先暫下坂之儀申勸、將亦私儀多人數召連居候に付ては、自然心得違の者相生じ可申哉。然時は先以奉對朝廷恐縮奉存候次第にて、折角朝規御一新之折柄、滯京仕候詮も無之、却て御爲にも不成儀に奉存候。旁先不取敢一旦國許へ引取申候。重て御用之節は、早々上京可仕候にて可有御座候。此段可然樣御取扱、宜言上之程御頼申上候。以上。 十二月(慶應三年)加賀宰相中將(慶寧) 〔前田慶寧家記〕 慶寧退京の報輦下に傳はるや、安藝・福井の二侯侍臣を遣はして之を抑止せんとせしが、慶寧は書を以て、備にその意のある所を告げ、前田内藏太孝錫を留めて在京せしめ、十二日歸途に就きしに、朝廷は十四日を以て加賀藩の禁裏警衞を解けり。然るに十八日に至りて朝議一變せるものゝ如く、再び命を慶寧に傳へてその上洛を促し、若し疾重くして召に感ずる能はずんば代ふるに老臣を以てすべしと宣ひ、同日又朝廷は、無頼の徒多く洛中に横行するを以て加賀藩の士に命じて巡邏の任に當らしめき。かくて慶寧は二十二日を以て金澤城に入りしが、その疾尚癒えざるが故に朝廷の召に應ずること能はずとなし、二十五日横山外記隆淑に命ずるに、明年正月己に代りて京師に朝すべきことを以てせり。是れより先江戸に在りては、二十三日舊幕府の閣老稻葉美濃守正邦等加賀藩の吏不破彦三爲儀を城中に招き、曩に慶喜の京師に在りし時慶寧が周旋したる勞を謝し、更に大にその力を借らんと欲するを以て、慶寧の大坂に來會するを求むるの意あることを告げたりき。蓋しこの際加賀藩の向背は、薩長と徳川氏との勢力消長に至大の關係ありしを以て、互に援きてその與黨たらしめんと苦心したりしなり。