前將軍慶喜は、慶寧の勸告したりしが如く一旦京を去りて大坂に下りしが、衆議して外側の奸を除かざるべからずとなし、慶應四年(明治元)正月二日加賀藩の吏北川寛兵衞清暉を招きて藩侯慶寧に與ふる書を託し、翌三日會津・桑名二藩の兵を先鋒として北上せしに、薩藩等は鳥羽・伏見の兩道を遮り、四日に至りて之を撃退せり。この日加賀の藩士歸山汲河・北村太左衞門は伏見に在りて戰况を偵察したりしが、共に流丸に當りて死したりき。既にして慶喜の書藩に達したりしを以て、慶寧は直に徳川氏を助けて朝命を私する薩藩に一撃を加へんと欲し、六日夜半親翰を發して出兵を命令せり。因りて九日部署を定め、村井又兵衞長在を第一隊とし、前田土佐守直信を第二隊とし、前田彈番孝敬を第三隊として順次征途に上るべきを定めたりき。この際山崎傳太郎孝之といふ者、藩が慶喜を助けんとするを以て策の得たるものにあらずとなし、正月十日上書して、普天の下率土の濱悉く王臣ならざるなきを以て、藩侯は須く自ら精兵を擁して禁闕守護の任に當り、東西の間に周旋して黎民を塗炭の苦より免れしむべく、而も不幸にして兵端を開くに至らば專ら王事に勤めざるべからざる所以を述べたりき。かくの如きは實に至正至公の議論たりといへども、騎虎の勢に驅られたる藩吏等は一人として之に耳を傾くるものなく、十日村井隊先づ金澤を發し、十二日その先鋒は越前の長崎に入り、隊將村井長在は小松に進めり。 慶應四年(明治元年)辰正月六日 一、御殿より御近習頭迄御親(慶寧)翰被成下、御達可申候條追付出座可致旨、暮六半時過御近習頭淺野内兵衞より御用番源五右衞門迄相達候に付、致出座候處左之通相公(慶寧)樣御意書等相達候。 今般朝廷大御變革被仰出候儀も、其實は全く薩州家奸臣共所爲より出候儀に而、暴威を以朝命を恣にし、其證跡顯然たるを以、既に頃日徳川内府(慶喜)樣御上洛討薩の思召に付、於此方樣茂皇國之御爲速に御人數被指出、尚此上御出陣被遊、内府樣え御協力被遊候思召に候。此段何茂え可申聞旨御意候。 〔御用所留〕 ○