是より先、朝廷は徳川氏の軍を撃退せりといへども、京師の物情頗る穩ならざりしを以て、正月七日慶寧に士卒を率ゐて上洛すべきを命じ、十一日には我が在京の兵士三百五十人及び大炮四門を徴發して橋本の關門を守らしめ、又更に加賀藩の重臣を召して慶寧の上洛を促し、若し疾病事故の已むを得ざるものあらば、親族又は重臣をして代らしむべきを命じ給へり。 御達書 加賀宰相(慶寧)中將 兼て被思召設候儀は、全公平衆議を可被爲採思召之處、豈圖らんや突然干戈に至り、終に大號令被發候通に付、各國相應人數引纏、速に上京可有之御沙汰候事。 正月(明治元年) 但、危急之御時節に付速に上京勿論候へども、路程遠近も有之候故凡の所上京、重役或は留守居共見込之趣可申出、其上御沙汰之旨も可有之、尚又當主所勞等にて上京難致向は、名代又は家老の者差出候事。 〔前田慶寧家記〕