然るにこの時慶寧は病に罷り、容易に出京する能はざりしを以て、十三日在京の藩臣前田孝錫に命を傳へて入朝上奏せしめて曰く、曩に京師の騷擾せしに際し、朝廷弊藩主慶寧の上洛を命じ給へりといへども、偶疾によりて發する能はざりしを以て重臣に天機を奉伺せしめしが、道途積雪の爲に沮まれて未だ到著すること能はず。是を以て在京の孝錫をして先づ代りて聖體の安を問はしむと。乃ち勅を傳へて嘉尚し給へり。次いで十七日、藩は銃隊馬廻頭の一隊・銃隊物頭の二隊及び炮除物頭の一隊を横山隆淑の指揮に屬せしめて京師に遣はし、翌日及慶寧の急に途に上ること能はざるが故に、父齊泰をして之に代らしめんことを請へり。その書に曰く、方今國家危急の時に際し、臣慶寧兵士を率ゐて速かに京師に赴き、以て身命を皇室の爲に捧ぐべきは固よりその所なり。况や曩に屢勅を下し給ひたるを以て、當に馳せて召に應ぜざるべからず。然るに客冬慶寧の疾を力めて京師に入るや、沍寒の爲に犯されて健康を害すること甚だしく、今日尚入朝の期を刻すること難し。是を以て、父齊泰亦多病にして已に老を告げ、王事に勤むること必ず意の如くなる能はざるべしといへども、慶寧が朝命を遲滯するを恐れ、姑く代りて京師に留らんと欲す。敢へて請ふ之を允し給はんことをと。而して慶寧は十九日又普く領内に令し、厚く朝旨を遵奉して方向を謬る勿らんことを諭したりき。葢し加賀藩の方針は、曩祖利家以來その志常に勤王に在りしといへども、政界の白風黒雨遂に誤りて岐路に彷徨せんとするの虞ありしに、今や大道に復することを得、上下の標的明々白々たるに至りしなり。次いで豐島安三郎毅は建議して、加賀藩が薩長と同心協力し、以て王政復古の大業を翼賛せざるべからずとなし、佐幕佐會の説の如きは斷然顧慮する所なかるべき所以を高唱せり。思ふに藩論の歸趨を一にしたるは先に發したる慶寧の告諭に在りといへども、薩長との連合を主張するに至りたるは、更に一歩を進めて時勢の潮流に棹さんとしたるものにして、時運の益移動したる跡を見るべし。この建白書が二月に至りて提出せられ、その機會を逸したる感あるは、安三郎が文久三年以降幽閉せられ、本年一月初めて赦免せられたるに因る。