朝命遵奉之儀は申出す迄も無之候得共、今般王政復古被仰出候上は、諸事朝廷より御沙汰有之儀に候間彌以厚遵奉いたし、且又方今の形勢兼而心得可有儀は勿論に候得共、皇國之御大事此秋に候間、何も勤王の志を旨として國事之爲可勵忠誠候。此段被相心得、一同え可被申聞候事。 正月十九日(明治元年) 〔續本藩歴譜〕 ○ 短才淺識臣毅之(豐島)如き者、天下之大勢を奉申上候儀甚以奉恐入候得共、芻蕘之言も聖人是を擇ぶと申せば、芹曝の微衷御裁察奉願候。先年浪士京畿に於て島津三郎に逼り歎願仕候より諸藩人氣沸騰、幕府威權を以て抑へて浪士彌盛なり。是積欝の致す處、天下大變革之時節と奉存候間、御當家に於而も政務御振起舊染御改め無之ては相成申間敷、興亡強弱之相關る處と奉存候得者、非分を顧みず奉言上候。古より國を保ち人民を安ずる君者、天下之變遷に從て其國之規定法則を改め、威恩並び行はれ、國家を泰山の安きに置れ候。故に古人も能時務を知る者を俊傑となすと。今日本全國之主と奉仰者天皇なり。幕府徳川家は數代の御威勢に而日本國之主の如く相見候得共、實者臣下之御身分、諸大名之長なり。徳川家より諸大名へ賜はる處の秩祿釆地、皆是天子之有なり。然るを徳川家より諸大名へ配當し數代之後に及びては終に徳川家より賜はる如く思ふ故、諸大名外樣之内にも徳川家之臣下と心得られ候方も有之なれ共、實に一時の勢に壓れ、順逆之道理に晦き故、天子に敵しても徳川家を助けんと思ふ樣に相成は以外之誤りと申者也。譬へば富商之家の番頭たる者、其主人に代り扶持・給銀をあたふればとて、手代末々之者番頭を主人と心得ては、兒女子の見識と申者也。然れば幕府は天子の番頭の如し。其番頭を主より重んじては兒女子の見識にて、此儀明白ならざれば、毫釐之違ひ千里の謬りと相成可申与奉存候。方今薩長を始として西國諸侯勤王を唱へ、政權を朝廷へ歸し、天子を挾んで諸侯へ號令す。最も薩長等之心測りがたく候得共、名義は一通り相立居申候。今妄りに是に敵しては却而朝敵の名を取り、順逆之道理をしらざる盲目と被笑可申。昔三國之時曹操漢之天子を都に奉じ、大軍を率ゐ諸侯の不從者を征す。然るに袁紹自ら大國を恃んで是に敵し都を攻んとす。其良臣沮授是を諫むれ共不用、官渡にて一戰し、果して大敗を取り國忽ち滅亡せり。是袁紹朝敵の名を受る故と被存候。依而今御當家に於ても速に勤王を唱へ、薩長等と同心協力王政復古之御良策たてさせられ度、萬一誤て幕府を主君の樣に被思召、勤王の心輕忽に相成候ては、冠履倒置と申者にて、必ず後害を取べく儀と奉存候。故に今御一己の御明斷を以て、專ら朝廷を重んじ、側ら幕府をも不棄之御良策、自然可有之奉存候。 一、當時薩土二侯專ら京師を守護し、既に此間伏見之一戰、一橋・會津共に敗走の樣子承る。依而御當家に於ても此節議論紛然、或は薩土を奸猾と惡み、一橋・會津等へ左袒の議論も有之樣に承る。是時勢を知らざる迂論と申者也。薩長等内心は如何難測候得共、前段にも申如く表面朝廷を遵奉する論相立居候得ば、妄りに間然すべき儀に無御座と奉存候。且幕府旗下數萬有之、會津侯迄京都守護之積威を持ながら一戰敗北被致候者、全く人望の相絶候故と被存候得ば、以後之再擧無覺束と奉存候。故に斷然佐幕佐會の論はやめさせられ、勤王之事御勵精被爲在度奉歎願候。 一、臣毅往年江戸表勤學中諸藩の人に接交、其國俗士風を伺ひ申候處、長薩・會津・鍋島藩等は士風強く、文學も盛に、武備も又充實の樣見受申候。其中會津者少し固陋之風有之といへども、士風は最も強き樣に見受申候。近來長藩は一旦朝敵之名を受候得共、纔二ヶ國の力を以て、徳川家の大軍を引受打拂ひ候處を見申せば、必ず長藩に人望の稱宜敷有之と被存侯。所謂天意は人意の向背に依而見ると申如く、人意の從ひ向ふ處者全く其藩風正敷人民を愛恤する故と奉存候。依而臣奉冀望處は、右長薩藩と御親接被爲在、倶に勤王の謀議被爲在度奉存候。故に先才學優長にて能時勢を察する人を撰み、京攝の間へ出し置、諸國之動靜人情の向背を察し、諸藩に冠たる御處置被爲在度奉歎願候。臣豐島毅惶懼再拜。 慶應四年(明治元年)二月 〔豐島毅建白書〕