三月十四日天皇紫宸殿に臨み五事を神祇に誓はせ給ひしに、齊泰は參内してこれに列し奉れり。次いで十七日天皇將に親征の爲に大坂に行幸し給はんとせしを以て、齊泰は召に應じ前田直信を從へて參朝せしに、御前に於いて特旨を蒙り、御餕を賜ひ、薩摩・阿波二藩と共に京師の留守を命ぜられたりき。勅に曰く、抑京師は列聖山陵の在る所たるが故に、その警衞を嚴にせざるべからざるは論なし。而して今や親征の事に當り、往々浮説を放つものありて人心爲に平穩なること能はず。この際若し不逞の徒の虚に乘じ良民を苦しむるあらば、その審決して尠少ならざるなり。朕深く之を憂へ、汝前田齊泰及び蜂須賀茂韶・島津忠義に命じて留守せしむ。三藩宜しく相謀りて洛の中外を鎭し庶民を安堵せしむべしと。岩倉具視も亦別に直信を招き、加賀が大藩なるを以て朝廷厚く之に倚頼し給ふとの意を告げ、士氣を鼓舞する所ありき。是に於いて三藩相議して部署を分かち、上下の二京は薩摩・阿波之を守り、中京は加賀藩これを戒むることゝし、而して齊泰は特に在邸の老臣に諭告するに、粉骨碎身この重任を全くすべきを以てせり。次いで十九日朝廷に請ひ、藩兵の橋本の關門に在るものを移して今出川門の守衞に當て、二十一日車駕西下し給ひしときには藩兵を出して七條より鳥羽の城南に至る途上を護れり。この月慶寧は金五千兩を献じて大宮御所の造營を助け奉り、又天皇の元服し給ふに當り非常の大赦を行はれたるを以て、加賀藩にては元治の變國事に座して流謫・永牢・禁錮等に處せられたるものを宥せり。