この前後、加賀藩は專ら力を北越征討の事に用ひたるを以て、内治に關しては多く見るに足るものあらず。但し九月朔日大政一新の趣旨を體して藩制の舊慣を改め、村井又兵衞長在・横山藏人政和・横山外記隆淑を平生方專務軍事方兼務となし、前田土佐守直信・本多圖善政醇・不破彦三爲儀を軍事方專務平生方兼務とし、本多播磨守政均をして平生方・軍事方を統率せしめ、また十四日には會議所を金澤に設け、馬廻・定番馬廻・組外の各組頭を三・九の日こゝに會して事務を執らしめ、且つ士卒陪隸農商の徒に至るまで苟も意見あるものは、出でゝ之を陳述するを得しめしのみならず、或は封事を藩侯に上り或は直接に謁見を請ふに毫も忌憚する所なかるべきを諭し、二十一日藩士が他藩の士と交際するを禁じたる舊制を撤したる如きは、皆天皇御誓文の趣旨に則り、衆民をして齊しくその志を遂げしめ、公論に基づきたる經綸を行はんとしたるものにして、頗る施設の時宜に適するものありしを見るべし。その他の改革も亦徐々に行はれて、十月二十四日には近臣が殿中に於いて武技を練磨することを止め、各學校に出席し又は師家に就きて秩序あり効果ある文武の講習を爲すべきを命じ、十一月二十日には匭函を城下枯木橋に設けて下民の言はんと欲する所を隨意に投書せしむる施設を試みたりき。この時慶寧は大に海軍を起さんとするの志ありしを以て、十二月朔日英人を雇傭して能登の所口に置かんことを請ひしも、朝議の許可を得ること能はざりしを以て止めり。