慶應四年(明治元)正月三日前將軍徳川慶喜は、會桑二藩の兵を先驅とし、姫路・高松等約一萬の兵を率ゐ、大坂を發して鳥羽・伏見二道より京師を侵さんとせり。是に於いて禁裏を守衞したる薩長藝上等の各藩士は進みて之を邀撃せしに、翌四日に至りて徳川氏の軍大に敗れしかば、慶喜は頽勢の遂に挽回すべからざるを知り、六日會津侯松平容保と共に軍艦に乘じて江戸に逃走したりき。朝廷乃ち慶喜の罪を嶋らし、七日を以て征討の勅を發し給ひ、九日北陸道鎭撫總督を高倉永祜に、副總督を四條隆平に命じ、又西本願寺法主光澤をしてその役僧を派して北陸道の士民に名分を諭す所あらしめき。然るにこの時恰も積雪の候に當り、鎭撫總督等急に北陸に入ること能はざりしを以て、十五日先づ書を發して諸侯の向背を確めしに、加賀藩を初めとし皆忠誠を盡くして王事に勤勞すべきを奉答せり。 別紙之趣に付、爲勅使不日可發向候得共、積雪之時節途中手間取も難計に付、御趣意之次第先以書面相達候間、一應之御請状早々差上可申候也。 正月十五日(明治元年)副總督四條大夫 鎭撫總督高倉三位 北陸道七ヶ國國主領主地頭中 今般(別紙)王政復古に付而者、王事ニ勤勞可致は勿論之事候得共、當今之騷擾に付、方向難定人心疑惑可仕折柄ニ候得者、尚存慮之次第可及尋問御沙汰候事。 〔北陸道先鋒記〕 ○ 御書謹而奉拜戴候。今般王政御復古被爲在候に付而者、王事に勤勞可仕儀者勿論之事に候得共、當今之騷擾に付、方向難定人心疑惑可仕折柄に候得者、尚存慮之次第御尋問可被爲在御沙汰之趣奉畏、御尤之御儀奉存候。素より尊王之儀においては毛頭無他念罷在候得共、右樣御沙汰被爲在儀者、畢竟勤勞薄故と奉恐縮至極候。乍不及此上彌忠誠を勵まし、王事に可奉勤勞候。右一應之御請状早々可奉指上旨御別紙之趣に付、此段謹而奉言上候。宜御奏達被成下候樣仕度奉願候。誠恐頓首。 正月廿六日(明治元年)加賀宰相(前田慶寧)中將 〔北陸道先鋒記〕 ○ 勅書謹而奉拜戴候。今般王政御復古被爲在に付而者、王事に勤勞可仕儀者勿論之事に候得共、當今之騷擾に付、方向難定人心疑惑可仕折柄に候得者、尚存慮之次第御尋問可被爲在御沙汰之趣奉畏候。素より尊王之儀においては毛頭無他念罷在申候。乍恐猶此上彌忠節を勵まし、王事に可奉勤勞候。右一應之御請状早々可奉指上旨御別紙之趣に付、此段謹而奉言上候。宜御奏達被成下候之樣仕度奉願候。誠恐謹言。 正月廿五日(明治元年)前田飛騨守(利鬯) 〔北陸道先鋒記〕