二月十一日東征大總督有栖川宮熾仁親王、軍令及び廟算書を先鋒總督に授け給へり。廟算書は即ち征討の一般方略を記したるものにして、之に據れば北陸道先鋒總督は命を待ちて隨從の兵を整へ、進軍の途次諸藩を諭して朝廷に葵向せしめ、遂に信濃を經て上野の沼田・草津等要衝の地に礎陣を据ゑ、その前面に斥候隊を放つべく、而して東海道は攻撃を主とし、北陸道は防禦を旨とすべしといへども、時宜によりて進撃に轉ぜざるべからざるは勿論なりといへり。 二月十九日朝廷は加賀藩在京の重臣を召し、客冬藩侯慶寧の事變に臨みて國に歸りたるは元治元年の退京と共に頗る擧動の穩當を缺けるものなりとし、書を以て詰問せり。前田直信及び横山隆淑乃ち連署して之を辯解し、加賀藩が朝廷に對して異志なきことを明らかにせん爲、今次王師の東北を征討せんとするに當り命ずるに北陸道先鋒を以てし給はゞ、粉骨碎身して報國の赤誠を表すべしと應へしに、朝議その意を諒とし、敢へて前過を咎めざるべきも特來の行動を愼まざるべからずと告げ給へり。次いで二十一日慶寧も、また加賀藩が獨力先鋒たるのみならず、王師の要する軍資を献納せんとの願書を提出したりしに、延議之に報じて、先鋒及び軍資の事は既に足りたるを以て許す能はざるも、將に大に親兵を徴發せんとするが故に、之に對する費用に就きて力を致すべきを命じ、又親兵取調係二名を派遣せしめき。藩乃ち井口嘉一郎・安達幸之助を以て之に應ぜり。 御書取 加賀宰相(慶寧)中將 先年輦下(元治元年)御變動の砌、尚又舊冬(慶應三年)同樣形勢に當り、上京滯在ながら歸國の儀、臣子之分殊武門之身如何と頗御不審に付、其旨趣御尋問候間、情實巨細に言上可有之御沙汰之事。 二月(明治元年) ○ 御請書 主人(慶寧)儀、先年輦下御變動之砌、猶又舊冬同樣形勢に當り、上京滯在ながら歸國之儀、臣子之分殊に武門之身如何と頗御不審に付、其旨趣御尋問之趣御沙汰之御旨奉畏入奉存候。宰相(慶寧)中將儀、先年部屋住中在京罷在候節、舊幕府之所置方により長防不穩事情難默止次第、病中別て乍不及配慮致見込之處、周旋之筋も有之候へども、彼是切迫の事情へ押移り、不容易擧動に立至り、周旋之次第齟齬に相成候に付、京師御警衞之人數相殘引取申候。然處病中とは乍申不都合之次第に運候趣を以、中納言(齊泰)申譯之ため先謹愼申付、家來共不行屆之族夫々嚴重處置申付、朝幕え中納言より厚御詫申上、追て御宥免被成下候。將又舊臘出京仕候即日大政御一新被仰付候折柄、慶喜之麾下曁會桑二藩暴擧も難計、慶喜に於て鎭撫盡力罷在候體に候へども、萬一都下騷擾に及び候ては不容易、已に奉歸大政候上は、一先下坂麾下之者共厚鎭撫致し、彌以勤王遵奉を盡し候樣致説得候へども奮發之族無覺束、重疊下坂申進、於宰相中將も多人數之儀、萬一方向を誤り動搖を生じ候ては、病中親敷指揮行屆間敷、殊に此儘罷在候ては慶喜下坂之説得存意も屆兼候儀、旁追て御沙汰も不顧引取候次第に御座候。然處不日兵端相開候場合に至り候ては失時機、藩屏の任に於ても不本意之次第、何共悔悟恐縮罷在候。是等之趣中納言にも奉恐入、上京の上御詫も可仕候へども、私共に於ても甚以心痛罷在候に付、實蹟を以報國之赤心を顯し申度候に付、御親征之御先鋒歎願仕候儀に御座候。勿論北陸道之儀は、弊藩一手へ御委任被下候はゞ、一同感激仕、粉骨碎身盡忠勤申度奉歎願候。且奉恐入候へども、御初政之砌都て御寛大御朝議之趣拜承も仕候儀、弊藩に於ても偏に御憐愍之趣返々懇願仕候。以上。 加賀宰相中將内 二月(明治元年)前田土佐守 横山外記 〔前田慶寧家記〕 ○ 御沙汰書 加賀宰相(慶事)中將 御不審之筋有之御糺問之處、巨細御返答紙面之趣、彼是齟齬之次第可有之候へば、總て既往は不被爲問候間、御理(コトハリ)之趣何も被聞食候。乍去向後之處右樣不都合之儀無之樣、急度可心得御沙汰候事。 二月(明治元年) 〔前田慶寧家記〕 ○ 今度御親征被仰出候に付、北陸道之御先鋒弊藩一手を以報國之赤心を顯し申度、此段奉歎願候。將亦方今御一新之折柄御親征被仰出、御用途之程奉恐察相應之献金をも仕度奉存候得共、國弊罷在在底にも不任次第。乍併御重大之御用費と奉存候間、乍不行屆精誠國力を盡し献金仕度奉存候。御親征之御用途に御指加被下候者、重疊難有奉存候。此段御許容被下候樣奉願候。以上。 二月(明治元年)加賀宰相(慶寧)中將 〔北陸道先鋒記〕 ○ 加賀宰相(慶寧)中將 別紙出願兩條、神妙に被思召候得共、御親征先鋒之向並御用途邊、最早夫々被仰付有之候に付、不被及御沙汰候。依之今度大に御親兵御取立被仰出候に付、右御用途向之儀被仰付候旨御沙汰候事。 二月(明治元年) 但し其藩中に而御親兵取調係可被仰付候間、早々任撰兩人可差出候也。 〔北陸道先鋒記〕