是より先會津藩は越後の諸藩に牒し、その國情恟湧して藩士の越後に逃竄するもの甚だ多きを以て、兵を發して之を鎭撫せんとすと告げたりき。加賀藩は會津が名をその藩士の鎭撫に假りて兵を越後に進めんとするの情を知り、三月五日之を先鋒總督に稟せしが、先鋒總督は十七日令を越後諸藩に下し、會津の兵若しその領内に入らば諭して本藩に還らしむべく、敢へて命に抗するものあらば直に誅鋤するを妨げずとなし、乃ち高田藩主榊原政敬及び新發田藩主溝口直正の入覲を緩くし、領邑に在りて相援けて事を處せしめ、又諸藩の老臣を引見して會津藩兵の鎭壓に努力すべきを命じたりき。 會津御家中先達而以來追々脱藩御人數有之樣子にて、今度右御取締之儀に付、御同家御軍事方より越後筋御大小名へ御廻章相廻候旨承り申に付、聞合之者(加賀藩)指遣候處、別紙寫取參り申に付相添之、小紙を以御達申上候。以上。 三月五日(明治元年) 〔復古外記〕 既にして東征大總督は、又北陸先鋒總督の江戸に進發すべき命を發したるを以て、先鋒總督は十九日高田を發し、信濃を經、四月四日江戸に入りて淺草の東本願寺別院に次せり。この日前將軍徳川慶喜は、既に東叡山に蟄居して恭順の意を表せしが、更に水戸に赴きて謹愼すべきを命ぜられしが、東北諸侯の強硬なるもの尚王師に抗敵せんとするの勢を示すものあり。因りて朝廷は之が討伐を謀り、十五日には加賀藩、十八日には富山藩も亦北陸道の官軍に屬して進撃すべしとの令を傳へられたり。十九日北陸道先鋒總督兼鎭撫使高倉永祜は更めて北陸道鎭撫總督兼會津征討總督を命ぜられ、黒田清隆・山縣有朋をその參謀と爲し、北陸道先鋒副總督兼鎭撫使四條隆平は新潟裁判所總督兼北陸道鎭撫副總督となる。既にして總督は北陸道各藩に牒し、知行壹萬石毎に六石の比例を以て粮米を出すの外、江戸に有する兵員・銃炮を徴發せんとせしが、加賀藩はその粮米を上納するも、兵員・銃炮は之を越後に動かさゞるべからざるを以て徴發を辭せんことを請ひて免さるゝを得たり。 加賀宰相(慶寧)中將 右松平肥後(容保)益暴激に募り、官軍に抗し候段相聞え、言語道斷之次第に候。仍之今般重而薩長之人數北陸道へ被指向候間、三藩申合北國筋鎭護いたし候樣被仰付候旨御沙汰候事。 四月十五日(明治元年) 〔復古外記〕 ○ 前田稠松(富山侯) 人數三百人 右松平肥後暴激に募り、官軍に抗し候段相聞え候。仍之北越へ被指向候旨御沙汰候事。 四月十八日(明治元年) 〔復古外記〕 ○ 北陸道藩々、高壹萬石に付粮米六石宛之割合を以糴米方被仰出候條、其旨被相心得、東本願寺御本營(江戸)へ早々運送可有之候。尤代料は追て御下渡に相成可申候事。 但、石數多少に不係、買入次第白米にて可被相納候事。 四月(明治元年)督府執事(北陸道先鋒總督) 加州留守居中 〔復古外記〕 ○ 其藩邸詰合之兵隊人數並炮器(江戸)・彈藥、多少に不係御本營へ可被差出旨御沙汰候事。 四月(明治元年)督府執事 加州藩留守居中 〔復古外記〕 ○ 北陸道御總督樣より於江戸御本營へ家來之者被召呼候ニ付、居殘候留守居役之者參上仕候處、御沙汰之條別紙寫之通被仰付候。依之粮米之儀、貯無之候得共買入御用相勤申候。人數之儀は、一切詰合不申に付御請難仕段參謀衆へ申達候處、左候ば國許へ申達可差出旨申談之由國許へ告越候に付、人數差立候手筈之旨此表へ申越候。然處今般北陸道鎭壓被仰付出兵仕候儀にて、已に御當地詰人之内差戻し申度奉願候趣も御座候間、江戸表へ人數差出候儀は被爲免被下候樣仕度、此段奉願候。以上。 加賀宰相中將内 四月(明治元年)里見亥三郎 (付札) 江戸表人數被免候事。 〔復古外記〕