初め官軍の北陸道に進發せんとするや、その軍糧を民間より徴發せざるべからざる必要ありしを以て、先づ東本願寺の法主を越前・加賀・能登・越中に派して諭示する所あらしめんとしたりき。蓋し曩に西本願寺が朝命を奉じて使僧を派遣し、親政の趣旨を宣傳して功を收めたるを以て、今次の戰役に於いて東本願寺は自ら進みて王事に竭くさんことを乞ひたるに因るといへども、又恐らくは陰かに朝廷の慫慂せし結果たらずんばあらざるなり。然るに朝廷より北陸の各藩に不日東本願寺法主の出發せんとするを報ずるや、在京の加賀藩吏はその目的の何れにあるかを朝廷に問ひ、後情を得るに及びて、献穀の事に關しては藩の全力を擧げて之に從ふべきが故に、敢へて法主の北下に待たざることを進言せり。是を以て法主の遊説は、遂に實行せられずして止みたりき。 今度就御用、東本願寺近江路より越前・加賀・能登・越中迄罷越候間、爲其心得申達候事。 四月(明治元年) 〔北陸道先鋒記〕 ○ 今度就御用、東本願寺殿近江路より越前・加賀・能登・越中迄御越に付、爲心得御達御座候。右者何等之御用筋に被爲在候哉、一應奉伺國許に申越度奉存候。以上。 加賀宰相中將内 四月二十日(明治元年)里見亥三郎 辨事御役所 (付札) 粮米御手支無之樣御用相伺度願に付被仰付候事。 〔前田家記〕 ○ 今度就御用、東本願寺殿近江路より越前・加賀・能登・越中迄御越之旨御達に付、右御用邊奉窺候處、粮米御手支無之樣御用被相伺度御願に付被仰付候御儀之旨御達御座候。右樣御用邊に候へば、今度弊藩に御親兵御取立之御用途向就被仰付候精々國力を盡し献貢米仕候儀、殊に又今般北陸道鎭壓被仰付出兵之手當、且者隣國越後筋頃日騷々敷聞得も御座候得者、領内取締向防禦の手配も一際嚴重申付候處、御門主御下向御座候而者、領國中者往昔より町・在共門徒歸依之者夥敷、取分農家に至り候而者偏固之民情、信仰之廉より競立候樣相成、時宜に依難制儀出來、國政差障に相成候間、加越能三ヶ國御經廻之儀御指止之御沙汰被下候樣仕度、最早御發途にも相成居候儀に付、速に御聞濟之程奉願候。以上。 加賀宰相中將内 四月二十五日(明治元年)小谷兵左衞門 辨事御役所 (付札) 願之通御差止に相成候事。 〔前田家記〕