初め會津・新發田の二藩は薩長の爲す所を不滿となし、慶應三年九月十五日同志諸侯の重臣を新潟に招きて會議せしに、高田藩も亦之に參與したりしを以て、今や王師の北越に入らんとするに當りその向背は最も注目する所なりき。蓋しその地信越二州の要樞に當るが故に、若し高田藩にして官軍に屬せば、北陸・東山二道の貔貅をこゝに集合せしめて戰局の發展上至大の便を得べく、之に反して叛軍に投ぜば、二道官軍の連絡を杜絶せられて非常の妨害となるべきを以てなり。故を以て舊幕府の歩兵組は夙に高田に潛入し、榊原氏が譜代大名にして、徳川氏に報ゆる所なかるべからざる所以を述べて之を叛軍に加らしめんとし、高田藩もその力微弱にして彼等と爭ふこと能はざりしが故に姑く之に從ひしが、實は時勢の推移を考へ名分の順逆に照らして、漸く彼等と絶たんと欲する念なきにあらざりしを以て、東山・北陸二道の官軍が既に高田に近づきてその行動を監視するに及び、頗る不安の念なきこと能はざりき。