是を以て高田侯榊原政敬は加賀藩の勢力を假りてその危機を脱せんと欲し、閏四月六日使者柴山彌三右衞門を金澤に發遣せり。彌三右衞門加賀藩の重臣に告げて曰く、曩に浮浪の徒多く高田領に入るや、我が兵空炮を放ちて逐ひしに、信州各藩は之を聞きて、高田藩が首鼠兩端を持するを以て故らに死傷者なからしめんとせしなりと誣ひ、今や城下を去ること三里なる新井に兵を進めて將に戰端を開かんとしつゝあり。弊藩は固より大義名分の何たるを知らざるものにあらずといへども、唯從來徳川氏と親善なりしを以て、百の分疏も或は諸藩の嫌疑を解くこと能はざるを恐る。故を以て願はくは貴藩の周旋により、弊藩の歸順を完からしめんことをと。是より先加賀藩は關澤安左衞門・野口斧吉二人を派して高田の行動を密偵せしめ、略その官軍に歸順すべきを知りたりしを以て、乃ち彌三右衞門を諭して歸らしめ、急使を越中泊驛にありし齋藤與兵衞に遣はし高田藩の請を容るべき訓令を發したりしかば、八日與兵衞は使役成田外鐖助を高田に向かはしめ、翌日榊原氏の邸に就きて爲に周旋せんことを告げたりき。是に於いて加賀藩は閏四月十五日泊に駐屯せる諸隊を進發せしめ、十九日高田に入りたりしが、同日官軍の參謀黒田清隆・山縣有朋は薩長・長府の兵を率ゐて此の地に來り、次いで尾張以下の東海道軍もまた相會せしを以て、共に越後の敵を勦滅せんことを議し、全軍を別ちて一は山道より魚沼郡に入らしめ、一は海道を取りて刈羽郡に進ましむることゝせり。因りて薩長・加賀・富山等の諸隊は後者に屬し、而して加賀藩の兵は進みて柹崎に陣したりき。 時に桑名藩主松平定敬は、前將軍慶喜が服罪することゝなりし後、自ら家臣百五十餘人を率ゐ、その食邑の一なる越後の柏崎に入りて謹愼せしが、鳥羽・伏見の役に從ひたる主戰黨の來り加るに及び、遂に恭順黨を壓して抗敵の態度を取り領境鯨波を固守したるに、舊幕臣歩兵組の古屋作左衞門・水戸の奸黨市河三左衞門も亦行動を一にせり。因りて官軍の參謀三好軍太郎は之を撃退せんとし閏四月二十七日薩藩二小隊・長藩一小隊・高田藩の兵若干を鯨波の道路に放ち、加賀藩高畠猪太夫の隊をして山上に屯集せる敵に對せしめき。高畠隊乃ち河を渉りて肉薄せしに、敵俯瞰して之を撃ち、我が武井彌三右衞門・水上徳次郎を斃し、隊長も亦銃丸をその肩に受けたるのみならず、携行せる彈藥將に盡きんとしたるを以て、全軍を海岸の丘上に集めて背進せり。偶二番手の隊長杉本美和介・近藤新左衞門は、谷根口より山道を經て鯨波に向かひたりしが、遙かに炮聲を聞きたるを以て走せて戰線に入り、鯨波が既に猛火の中に在るを見、直に吶喊して進軍せり。この時高畠隊は彈藥の補給を得、堀丈之助・宮崎久兵衞の隊も亦海岸を迂回して來援したるを以て、相合して攻撃に從へりといへども、銃創を得るもの甚だ多かりしかば、薩藩をして暫く代らしめ、加賀藩は少憩して糧食を喫したる後再び戰列に加れり。