この戰、加賀藩の炮隊物頭水上喜八郎は、その一番炮を左方の小徑に据ゑて攻撃したるに、敵も亦炮一門を海岸に置きて應射し、分隊司令役橋本一之進は爲に銃創を得たり。因りて水上隊の炮を前面の凹地に進めて狙撃せしに、一彈能く命中して敵地を破壞するの奇功を奏したりといへども、彈丸全く盡きたるを以て一たび村端に退却し、更に二番炮・三番炮と共に猛襲せしが、偶薩藩は炮五門を運び來り、水上隊の戰勞を犒ひてこれに代らんことを求めたりき。一番炮乃ち右方に轉じて山上の敵に對し、二番炮と三番炮とは海岸に轉出し、遂に敵をしてその陣地を棄てゝ柏崎に逃走せしめ、夕六ツ半時に至りて諸隊皆青海川の本營に入れり。而して敵も亦損害の過大なりしに堪へず、二十八日柏崎の陣を撤し退きて妙法寺驛を固守したりき。 閏四月二十九日敵中田村に出沒すとの報あり。時に堀丈之助・宮崎久兵衞の引率する一隊は中濱に止りしが、夜五ツ時に至りて官軍の御用係吉田省之進といふ者その陣に來り、急に二人の兵を中田口に前進せしむべきを命じ、又柏崎に在りたる近藤新左衞門の隊に赴きて劍村方向に出張すべきを令せり。丈之助乃ち之に應じて先づ發したりしが、その柏崎を過ぐるに及び後續せる近藤隊を待ちて行を共にせんと請ひしも、省之進は時機を失ふの恐ありとして許さず。既にして省之進は、悉く我が兵の提灯を消燈せしめ己獨之を點ぜしが、その徽章を見るに桑名藩のものに彷彿たりしのみならず、偶前方より來れる同僚の闇中に彼と語るを聞くに、音聲甚だしく越後人に類するものあり。况や彼の嚮導する道路が當時敵によりて橋梁の破壞せられたりと風聞する方向なりしかば、遂に丈之助をして敵の間諜の我を危地に陷るゝものにあらずやとの疑を懷かしめ、省之進を要して何れの藩士なるかを確かめんとせしが、彼は明らかに答ふることなかりき。是に於いて丈之助意を決し、彼を殪さんことを配下深山久五郎に命ぜしに、久五郎は直に腰間の拳銃を取りて連發し、省之進は傷きて逸走し去れり。後その事情を檢して彼が眞に參謀の下僚なるを知りしかば、丈之助は己の輕擧を悔い、田尻村の山麓森林に至りて自刄せり。久五郎も、自ら刑に處せられんことを請ひしが、事固より過失に出で、且つ省之進の創痍輕微なりしを以て、參謀等命じて久五郎の處分を加賀藩に一任し、而して藩は之を高田に後送せり。丈之助は大小將組に班し、割場奉行たりし人にして、時に享年二十九なりき。後水野徳三郎之に代りてその隊を引率す。