五月十七日曉天降雨盆を覆し、河水爲に暴溢して堡壘を湛はしめしかば、士卒の戎衣悉く濡れ苦戰その極に達したりしが、敵の發炮も頗る緩漫にして殆ど前日の半にだに及ばざりき。その後河水益漲り、夜に入りては炮車半ば水中に沈み、隊員皆一たび大島村に退くを請ひしが、小川隊長は之を郤け、今や勝敗の數將に定らんとす、縱令水量の更に多きを加ふることあるも陣地を撤するを許さずと斷言せり。然るに幾くもなく雨止み星光燦として輝き、衆大に喜ぶ。翌十八日快晴、昧爽より戰状最も活況を呈せしが、炮司西坂丙四郎以下死傷多く、士氣甚だ沮喪したりき。この日午下、長藩の報國隊は小川隊に知照し、下流なる槇下より小舟四隻に分乘して對岸中島に向かはんとせしに、中島及び寺島を守れる敵之を見、忽ち彈丸を河心に雨注せしめしを以て、小川隊は上流草生津に猛撃を加へて敵勢を牽制し、一兵の發する所千餘丸、銃身熱して把る能はざるに至る。而して長藩の兵は、既に危險を冐して中流に浮べりといへども、敵の亂射に堪ふる能はず、遂に船首を回して加賀藩の陣地たる沙洲に着したりき。是より先、小川隊の沙洲に在るもの、連戰三日に亙り、炮彈を發射すること一千二百、銃丸に至りては幾萬なるを知らず、困憊頗る甚だしかりしを以て、齋藤隊は出で、これに代り、小川隊を大島村に還して鋭を養はしめき。然るにこの夜三好參謀は、明旦總攻撃に移るべしとの令を發したるを以て、小川隊は再び齋藤隊と交代して沙洲に入り、長藩の報國隊も亦中島口を襲はんと企て、槇下に潛伏して敵情を窺へり。 五月十九日朝八ツ半時、報國隊將に河を渡らんとしたるを以て、小川隊は盛に牽制射撃を爲しゝが、六ツ半時に至りて長岡城の北方に兵燹の起るを見たりき。これ報國隊が既に渡河を終りたるを報ぜるものにして、その火勢漸く熾ならんとするや、敵は不意の襲撃に驚きて大に動搖せり。小川隊乃ち山臼砲を沙洲の最前方に進めて草生津口を攻撃し、四ツ時機に乘じて河を渡らんとせしも舟なかりしかば、兵士をして泳ぎて對岸より之を齎さしめ、往返數回して漸次兵員を上陸せしめたる後、草生津口の炮臺を占領せり。時に城主牧野忠訓の一族を初め士民皆荷擔して森立峠より逃走せしを以て、三好參謀は令して發炮を止めその血路を開かしめき。既にして小川隊は進みて長岡城に向かひしも、殿閣焰煙に包まれて入る能はざりしが故に、妙見口に至りて守備の任に當り、次いで城内を巡邏せり。この日敵の潰走するに際し、或は巨炮の火門に針し、或は車輛を水田の中に投じて炮身を覆し、以て直に官兵の用に供する能はざらしめたり。甲冑の類亦多く遺棄せられしが、後皆信濃川の河床に集めて之を焚けり。藩兵乃ち嗤ひて曰く、これ野蠻時代の遺物なりと。同日黄昏柏崎より來りたる簑輪隊の半隊長岡に入りしを以て、小川隊はその任務を之に讓り、川を越えて半隊を關原に派し、半隊を喜多村の本營に宿陣せしめしが、次いで近藤隊の關原に來るに及び、その地に在りし半隊も亦喜多村に集合せり。この日北陸道鎭撫總督高倉水祜は、改めて奧羽征討越後口總督に任ぜらる。