五月二十日午刻妙見口の鋸山に戰鬪起る。この時喜多村に在りし小川隊は、報を得て長岡に入らんと欲し大島に至りしが、信濃川の汎濫により舟楫を通ずる能はざりしを以て、日暮兵を率ゐて本營に歸れり。二十一日簑輪隊の中隊は柏崎より來り、大島を經て長岡に入りしが、その兵寡くして守備に任ずるに堪へざりしを以て、小川隊の一分隊を喜多村より割きて輔けしめ、又大島に在りし齋藤隊は參謀の命により柏崎に轉じたるを以て、小川隊の一分隊を大島に派遣せり。この日長岡城は、薩長・高田及び加賀藩の兵力によりて全くその秩序を回復し、市民の戰禍を避けたるもの漸く歸り來りて、灰燼を除き假宅を構へ、終に市廛を開くものあるに至れり。 五月二十二日小川隊の全員を長岡に入るべき命を得たりしを以て、二十三日同地に着せしに、參謀は更にその半隊を割きて目附を守備せしめき。因りて第二半隊を長岡に駐め、第一半隊は小司高畠全三郎之を率ゐて目附に入り、二十四日半司富永安吉は第二半隊を率ゐ、成願寺村に入り簔輪隊に代り、而して簔輪隊は森立峠を經て栃尾驛に轉じたりき。同日また、薩長兩藩の杉澤村に進軍せんとするを以て、小川隊は松代の一小隊・高田の一炮門と共に目附に在りて戰状の推移に從ひ應援隊を派遣すべきを命ぜらる。三藩乃ち相議し、萬一の際松代藩と高田藩と援兵となりて前進し、加賀藩は目附に留りて守備に任ずることを約せしが、朝四ツ時松代藩の使者小川隊に來り、戰線より援軍を求むるの報至りしを以て、貴藩は我に代りて兵を進めよ、我は留りて守備の任に當らんと請へり。小川隊長之を容れ、半隊を率ゐて堀溝口に向かひしに、途にして薩藩の軍使に會すること再三次、皆松代藩の來援を促さんとするなりき。小川隊則ち薩長の苦戰するを知り、電馳して堀溝口に至りしに、參謀大野五左衞門は負傷して民屋に在りしが、告げて曰く、目下の形勢敵目附に迂回するやも測るべからず。果して然らば松代藩の兵力は之を防ぐに足らざるを以て、貴隊は速かに旋りてこれを守らざるべからずと。小川隊長強ひて進撃に加らんことを請ひしも、參謀の許可を得る能はず。因りて復目附に向かひしに、途に松代藩兵の前進し來るに遇へり。これ亦參謀の命によるといふ。既にして杉澤方面の官軍勝利を得しが、小川隊は目附を警備し、又高畠小司に一分隊を授けて市ヶ谷を守らしめき。