齋藤隊は曩に長岡の攻撃に參加したる後、大島より柏崎に移りしが、六月二日更に出雲崎に轉ぜしに、海岸の敵は山田村に、山地のものは島崎に在りて對抗の勢を張れり。官軍の參謀伊藤傳之助乃ち命じて、三日拂曉を以て總攻撃を爲さしめしかば、齋藤隊は山田村に向かひ、近藤・金子兩隊と附屬炮門とは本道を進み、薩長の一小隊及び松代藩の若干は間道に入れり。然るに山田村・島崎村の敵既に退却し、島崎を去ること十餘町なる北野村の山腹に炮壘を構へて固守したりしを以て、近藤隊は進みて之を攻撃せしも水田多くして自由に軍を行る能はず、爲に死傷を出すこと甚だ多かりき。因りて使を齋藤隊に發して來援を求め、齋藤隊は七ツ時島崎村に入り近藤隊に代りて戰ひしが、黄昏に至りて退却の命ありしを以て夜半皆出雲崎に歸れり。而して島崎村は齋藤隊の背進せし後敵の燒夷する所となりき。四日齋藤隊は久田村に進軍して守備すべき命を得たるを以て、乃ちその海岸に炮壘を築きて大炮二門を据ゑ、別に半隊をして與板街道守備の任に當らしめき。然るに十二日朝、敵はその附近に在りし松代藩の陣を襲ひしを以て、齋藤隊は高田藩と共に之を援け炮撃を加へて潰走せしめしが、後二十四日敵久田村の爺ヶ山に陣せる水野隊を襲ひし時には、隊長水野徳三郎之に死し、部下亦多く倒れ、宮崎隊の救援を得て纔かに防戰することを得、而して水野隊は宮崎隊長の合併引率する所となれり。この日敵彈多く齋藤隊の海岸炮壘に飛來せしも、敢へて來襲せんとするものなかりしを以て、與板街道の半隊を撤去し、更に一分隊を割きて爺ヶ山に炮壘を築かしめき。後に太田小又助の率ゆる中隊の來着するに及び、齋藤隊は出雲崎に還りて休養せしが、津田權五郎の銃隊馬廻組こゝに着陣したるを以て、又之と交代して出雲崎の陣を撤し、海路越中泊驛に上陸し、八月金澤に凱旋せり。 是より先小川隊は栃尾に在りしが、六月三目參謀より赤坂・杉澤の官兵皆その地を去りしが故に、同隊も亦森立峠に轉ずべきを命ぜられたりき。因りて日暮栃尾を發し、夜四ツ時森立峠に入りしに、飯田藩の一小隊既にこゝに陣せるを以て、小川隊は左翼半隊を割きてこれに合はせ、右翼半隊をして成願寺を戍らしめき。然るに翌四日、森立峠に在りし飯田藩の兵を長藩の一小隊に合はせて同所山中の間道を守備せしむることゝなりしを以て、成願寺なる小川隊の右翼半隊は養生兵を除く外皆本隊に入り、而してその養生兵は成願寺と半藏金を連絡する間道萱峠を衞れる尾張及び松代の兵と共に斥候の任務に服したりき。五日水上隊の一炮門は炮司村澤友男に引率せられて森立峠に來り、稍我が勢力を加へたりしが、この日栃尾に集りたる敵の數三百餘に達すとの報を得たりしを以て、近郷一ノ貝等に斥候を派して動靜を窺はしめ、嶺上の土壘に據りて警戒を嚴にし、以て六日及び七日を經過せり。八日栃尾の敵は森立峠を屠りて長岡城を回復せんと欲し、夜八ツ時長岡藩の四小隊は一ノ貝本道を進みて輕井澤の東西に展開し、會津の一小隊及び村松の一小隊は輕井澤より森立峠なる小川隊の正面に當り、別に會津の一小隊は比禮の間道より來り左側山上に在りて營内を俯射せしが、小川隊は前月來の戰鬪に兵數を減じ、且つ疲憊せる者多かりしを以て大に防禦に苦しめり。時に監察神田辰之助病みて成願寺病院に在りしが、藩兵の苦戰するを聞き轎に乘りて戰線に進み、同病院に在りし養生兵も亦杖に倚りて來り加り、士卒殆ど午食の暇を得ずして且つ食ひ且つ戰ひしも、敵勢猛烈にして前面の小丘は遂にその占領する所となれり。是に於いて小司高畠全三郎は半司等を會して告げて曰く、吾が輩生きて生を全くするも遂に屠腹して罪を藩侯に謝せざるべからず。如かず突貫して屍を沙場に晒さんにはと。乃ち『戰死前へ』の號令を下し、鼓長志賀猶五郎をして前進の譜を奏せしめしかば、我が兵皆銃を荷ひ刀を拔きて壘より出でしに、敵は驚きて荷頃口に背進せり。時に高畠小司人員を檢せしに、壮者纔かに三十人を殘しゝのみ。是より友軍皆本隊を目して小川壯健隊と呼び、官兵の勁勇なるものを數ふる毎に薩の十番隊・長の三番隊と並び稱せり。之を以て九日、越後總督府は枇杷葉湯二袋、監察山田定右衞門は燒鯖三十五本を贈りて小川隊の戰勞を慰めしが、我が兵高田を發せし後未だ曾て魚味に接せざりしを以て、欣喜措く能はざりき。十一日小川隊の缺員甚だしきを以て、半司津田半之丞は歩兵を率ゐて至り、原余所太郎隊の炮一門亦來りて水上隊と交代せり。十三日、敵兵六十人一ノ貝に入るとの報を得、小川隊は半司吉崎新六をして斥候兵を率ゐて探索せしめしに、敵が田ノ口村の山上に在りて炮壘を築くを見、友軍長藩と議して之を襲撃せしかば、敵驚駭して遁れ去れり。次いで十八日總督高倉永祜は、參謀西園寺公望と共に關原驛に抵りて諸藩の戰功を賞し、加賀藩も亦之に與りしが、幾くもなく永祜は二十二日疫疾に罹り、二十九日高田の陣營に卒したりき。 長岡落城後、連戰無虚日、殊に悍強之賊と對壘、連旬不得休息、遂苦戰候段、實に不堪感激、因馳一夫聊慰軍勞候。尚直樣朝廷へ可及奏聞候也。 六月十八日(明治元年) 永(高倉永祜)在判 公(西園寺公望)在判 加州隊御中 〔復古外記〕