この時先に負傷したる小川隊長は、柏崎病院に在りて加療せしが金澤に後送せらるゝことゝなり、且つその隊員も開戰以來功績最も著大なりしを以て、藩は特に青地半四郎の一隊を派しこれと交代凱旋せしむることゝせり。而して青地隊の金澤を出發せしは七月三日に在りしが、翌四日伏木に至りて軍艦に乘じ、五日柏崎に入りて小川隊長に會し、森立峠に在る一小隊及び原隊の一炮門の引繼ぎを受けたりき。この日森立峠に在りては半隊を分かちて一貝を巡邏せしめしが、七日更に泉村領の陣ヶ嶺に出兵するの命を得たりしを以て、乃ち一ノ貝に在りし半隊と森立峠の一炮門とを派遣し、尾張・飯田二藩に代りて之を守らしめしに、陣ヶ嶺に連續せる山脈の兩端は栃尾驛に通ずる本道なるを以て、敵は三面より蝟集して小銃を放ちたりき。因りて我が兵は之に應戰せしが、九日に至り春日於菟男の一分隊の來援を得、纔かにその臺場を固守することを得たり。次いで十日、青地隊長森立峠に着せしを以て、小川隊のうち後に加りたる補充兵を青地隊に轉屬せしめて一中隊と爲し、又小川隊の吉崎半司以下二十三人を教導兵として殘留せしむることゝし、その餘は皆歸還の準備に從へり。後十二日副總督四條隆平は柏崎病院に臨みて小川隊長以下隊員の病を訪ひしが、その辭極めて慇懃なりしを以て、衆皆大いに感激せり。この日以後森立峠に在りし小司高畠全三郎は軍需品一切を青地隊に引續ぎ、二十一日凱旋の途に就けり。