七月二十六日晝八ツ半時、浦瀬を守備したる長藩の干城隊成願寺の營に來り、東片貝等諸村に於ける官軍の守備兵が悉く背進したることを告げしを以て、吉崎半司はその地を棄てゝ森立峠に還りしが、暫くして森立峠も亦危險に陷り、屢使を遣はして參謀の指揮を請へり。然るに參謀等、森立峠が頗る緊要の地なるを以て、官軍の悉く撤退するまで之を支持すべきことを命じ、次いで今井久太郎の分隊・松本藩の分隊・大垣藩の小隊等續々として來り援けしが、二十七日の曉天に及び參謀福原和勝は青地隊をして三田村に退却せしめき。この時陣ヶ嶺の兵も亦熊取村の臺場に退きたりしが、地廣く人尠かりしを以て、福山村の津田十之進隊より應援を得、二十八日朝その陣地を長藩に讓りて田代村に至り、青地本隊と合して薄暮半藏金に入れり。而して吉崎半司の率ゐたる教導兵は半藏金に於いて青地隊と分かれ、妙見口より小千谷・柏崎を經て、八月八日金澤に歸りたりき。 加賀藩の老臣津田玄蕃正邦の統率する手兵は、五月進みて高岡に滯陣せしが、幾くもなく越後路の形勢頗る逼迫せるを以て、六月二十九日長岡に増派せらるべき命を得、之と同時に玄蕃は加賀藩出兵の惣司たるべき重任を擔へり。 其方儀、爲手當高岡え詰申渡置候處、下越後筋事情及切迫候由に付、其方儀爲増人數指遣候。尤出張人數惣司申付候條、其心得に而出兵先え早々出陣可有奮戰候。且爲官軍出張之事に候間、先達より出張之馬廻頭等萬事示合、參謀役可仕指圖候。以上。 六月廿九日(明治元年)慶寧印 津田玄蕃殿 〔慶應出陣記事〕