是に於いて津田玄蕃隊は、七月三日附屬大炮と共に高岡を發し、十六日長岡に至り徳性寺に宿せり。當時長岡は官軍の占領する所たりしを以て、津田隊は諸口防禦の任に當りしが、十九日參謀長太郎より比禮・栃窪二村に各半隊を派遣すべき命を得たりき。因りて第一半隊は玄蕃之を率ゐて比禮に、第二半隊は弟津田輔吉之が長として栃窪に入りしが、二十一日長藩と交代して再び長岡に還れり。 七月二十三日津田隊は卒若干を派し、筒場村に在りし今井久太郎の隊が滯陣久しきに亙り、多く病兵を出ししを以て之を助けたりしが、二十四日夜本營詰の笠松六郎津田隊に來り、官軍が明朝進撃せんとするを以て、更に數卒を今井隊に應援せしめんことを求め、津田隊は之に從ひたりき。然るに暫くして炮聲の殷々たるを聞き、長岡市中に火を失せしかば、參謀は急に全軍を大手門の本營前に集合し、斥候を放ちて警邏せしめしが、この時敵兵の市内に潛入したるもの既に多く、銃丸前後に飛び、夜暗くして咫尺を辨ぜず。殊に津田隊は地理に熟せざりしを以て備に困苦を甞め、漸く町端なる札場の傍に退きしに、偶官軍の參謀山縣有朋は長太郎と共にこゝに在りて、到底敵を防禦し得ざるべきが故に草生津口の柳原土手に退くべしとの命を與へたりき。是に於いて津田隊は長藩と共に堤防に據りて亂射せしが、敵は我が右翼より應戰し損害を與ふること甚だ多かりしを以て、二十五日天明の頃更に退きて河畔の大堤に據り、城市は完全に敵の占領する所となる。時に津田隊の糧食・彈藥大に缺乏せしが、信濃川の急流背面を遮斷して渡舟の便を得ること能はざりしかば、晝四ツ半時津田隊の兵三人水を渉りて彈藥を對岸に運び來りしも、尚これを戰線に携へ來る能はず、爲に各兵の有する銃丸僅かに兩三發なるあり、或は全く空しきに至り、特に夜來の疲憊と饑渇とにより戰鬪を止めて茫然たりき。然るに八ツ半時、初めて一隻の小舟を發見したるを以て、往返數次にして物資漸く豐かなるを得、遂にその一部を長藩及び松代藩に分與せり。時に簑輪隊の一分隊・各藩の兵五十餘人對岸に在りて津田隊の苦戰するを見しも、敵の防害する所となりて渡る能はざりしかば、遙かに敵の側面に射撃を加へしに敵勢漸く衰微し、津田隊は黄昏に至り川を越えて退き、夜半大島に入れり。