七月二十六日津田隊は大島に在りしが、參謀の命によりて下山村に移りしに、夜に入りて敵大島方面に發炮せしを以て、我も亦之に應戰せり。二十八日夜、長岡の敵篝火を焚くこと前日に十倍し、螺を吹き太鼓・銅鑼を鳴らして喧騷を極め、又盛に炮撃して虚勢を張りしが、二十九日朝五ツ時十日町村方面に炮聲を聞き、次いで兵燹の起るを見、四ツ半時に至り對岸に兵士一兩輩の來往するを認めたりき。津田隊乃ち號旗を振りて檢せしに、友軍の上陸せるものなるを知りたるを以て、直に小舟に乘じて渉り、戰ふこと之約半刻間にして、彼の應戰頗る衰色あるに乘じ突撃して長岡に入れり。時に城中既に空しく僅かに兩三の負傷者を留め、樓櫓亦焰煙の中に在りて將に倒壞せんとせり。津田隊の兵乃ち白布に『加州藩乘取』と大書し、これを城門に掲げたりき。既にして各藩の兵陸續城下に入りしを以て、津田隊は參謀と議して筒場村に進出し、薩藩及び高田藩を援けて敵を潰走せしめ、次いでその地の巡邏に當り、八月朔日筒場を發して今町に入る。この戰功により、九日津田玄蕃は藩侯の感状を得たり。 今度越後國え出兵、爲人數惣司同國長岡え出張之處、前月廿四日夜賊徒不意襲來、市中致放火烈敷及攻撃候節、堅固に敵を防、二十五日一先信濃川を越令對陣、同二十九日察機會再長岡城下え撃入、城を乘取賊を被追退候段令承知、諸藩出勢之眼前において被顯殿魁之功、偏依其方武勇得勝利候儀、當家之眉目不堪感悦候。彌可被抽忠勤之状如件。 慶應四(明治元年)八月九日慶事判 津田玄蕃殿 〔慶應出陣記事〕