加賀藩の人持組今枝民部直應は、この年閏四月二十日を以て藩境を守備すべき命を受け、手兵を率ゐて越中泊驛に在りしが、六月二十九日更に越後に進軍を命ぜられ、七月五日泊を發し、十五日長岡に着し、次いで本營の指揮により十二潟村の戰線に進み、田邊仙三郎の隊に交代せり。之より後附屬炮隊を中央に置き、銃隊を左右に展開し、薩藩の一小隊と共に日夜戰鬪に從事せしが、二十四日の夕に至り明日朝七ツ半時を以て進軍すべき命を得たり。然るに夜四ツ時敵兵不意に來襲して我が堡壘に迫り、附屬炮隊は邀撃して一時その勢力を殺ぎしも、六ツ半時に至りて更に猛烈を加へたりしかば、今枝隊の勇士十一人は薩兵と共に壘を超えて敵の側面を突撃し、之を灰島村に追ひしが、偶後方長岡方面の賊勢益熾なるが如くなりしを以て、又十二潟に退きて之を固守せり。然るに同日夕、戰况甚だ險惡に陷り、長岡との連絡全く斷絶し、前面の敵愈多きを加へ、且つ右方筒場口の戰鬪盛に起りたるが故に、參謀は遂に今枝隊に命じて河を渡りて退却せしむるに至れり。今枝隊乃ち小荷駄を整へ、河畔黒津村に至りしも、この夜豪雨雷鳴あり、加ふるに唯一隻の小舟あるに止りしかば、往返十數回の後二十六日朝七ツ半時に至りて全員を槇下に上陸せしむるを得たり。 今枝隊の槇下に上陸せし時は、長岡城が既に敵の爲に恢復せられたる後に在りき。是を以て今枝隊は、先づ關原村の本營に至りて指揮を受け、急行して川袋村の戰線に進み、終夜力を盡くして信濃川沿岸の胸壁築造に從事し、爾後こゝに敵陣と相對せり。然るに二十九日軍監荒尾駿河は、本日長岡に向かひて總攻撃を開始すべきが故に、今枝隊も亦機に臨みて前進すべしと命じたりき。今枝隊乃ち船を艤して期の至るを待ちしが、晝七ツ時に至り薩兵の上流槇下より渡河するを望みしかば、直に下流を横ぎり萱原を闢きて進みしに、更に猿橋川の我が進路を妨ぐるものありき。隊兵乃ち游ぎて對岸に繋げる孤舟を得、前後に綱を附して全員を渡し、遂に品ノ木村を占領し、横山・關根の二道より中島村に向かひしに、敵は今町の堤防に據り、苅谷田川の橋上に草を積みて火を放ち我が進出を妨害せしも、今枝隊は猛然之を除きて橋を超え、遂に今町を占領せり。この日親兵及び薩兵も苅田谷川を渡りて今町に入る。次いで八月二日、今枝隊は今町を發して三條に入り、大崎村及び下條村の警邏を爲し、十三日加茂驛に進めり。