青地隊乃ち十三日を以て、森重内等に降伏状を添へ三條に在りし監察永原甚七郎に送致せり。之を本隊の干與したる最大事件なりとす。十五日青地隊は栃尾に入り、十八日六日町に着し、二十四日十日町に入り、斥候を信州善光寺に派して形勢を偵察せしめしが、後十月朔日凱旋を命ぜられしを以て、十二日十日町を發して二十七日金澤に入れり。 今枝隊は九月九日加茂驛警戒の任を解除せられしが、更に津川口に前進すべきを命ぜられしを以て、五泉・石戸を經、十一日津川に着したりしに、十五日又前進の命を得、直にその地を發し、時等寺・瀧谷・野尻・中向を過ぎ、二十日奧州大蘆村に入り黒澤口の守備に任じたりき。然るに大蘆が山地にして展望佳良ならず、且つ區域廣大にして諸藩の軍亦尠きを以て、遠く斥候を出し壘を設けて嚴守せしに、果然二十四日に至り、前夜淺布口の溪間より潛入したる敵は村端なる神祠の森林に隱れて射撃せり。今枝隊乃ち一分隊を以て應戰して友軍を待ちしも、各一方面の警戒に任ずるが故に來り助くるものなかりき。因りて一時中津川に退き、更に隊伍を整へて大蘆に向かひしに、敵と山中に會せしかば討ちて之を走らしめ、次いで大蘆の社地森林を攻撃し、敵をして黒澤口及び淺布口に退却せしむ。爾後今枝隊は、十月八日に至るまで大蘆の守備に任じたりしが、敵既に降伏せるを以て凱旋すべきの命を得、九日その地を出發して十一月三日金澤に入れり。 津田玄蕃隊は、先きに八月朔日を以て今町に入りしが、六日見附を經て栃尾に進みしに、津田十之進隊・今井久太郎隊も亦この地に在りき。之より津田玄蕃隊は退場・吉ヶ谷を過ぎ、九月九日を以て奧州蒲生に入れり。この間に八十里越あり。道程八里に過ぎずといへども、行旅の困難之に十倍するを以て名づくといはる。而して本隊のこゝを通過するや、偶天寒くして飛雪繽紛、夫卒爲に命を殞すものあり。次いで十一日蒲生を發し、十四日山口村に達し、前方入小屋村に臺場を築きて之を守る。然るに二十三日拂曉、敵急に臺場に迫りしを以て、その地に在りし半隊は直に防戰せしが、敵左右の山地に展開するに及び、銃丸後方より飛來して忽ち三人を傷けしのみならず、我が大炮は悉く鵞管を消費したりしが故に、遂に炮車を分解して退却するの已むを得ざるに至り、之と同時に敵は益勢威を加へたりき。この時山口村の本陣には尚半隊の殘留するものありしも、未だ入小屋に戰鬪の起れるを知らざりしが、夫卒の報を得て直に赴援し、且つ急を宮床村なる富山藩兵に告げ、相協力して防禦せり。而も敵は山地に據りて發射し、我が軍頗る苦境に陷りしを以て、火を民家に放ち、焰煙の裡に隱れて暫く銃丸を免れ、次いで我が軍もまた左右の山上に登り、本道と共に挾撃して敵を驅逐したりき。その後敵軍來襲の浮説頻々として至り、飯山藩兵も亦こゝに駐るの不利なるを勸告せしを以て、津田玄蕃隊は一たび兵を界村に退けたりしが、界村も亦防守に便ならざりしかば、既に日暮れて將卒の疲憊せるに拘らず、再び下山・梁取の間に退きて野營を張り、篝火を焚きて夜を徹せんとせり。然るに飯山・高遠二藩の兵が大倉に退くに及び、敵は之に乘じて和泉田に入り、我が軍二面に敵を受くるの形勢に陷りしを以て、夜半復背進を初め、天明小林村に着したる後、村端の臺場に大炮及び兵員を配置せり。