九月二十四日津田玄蕃隊は富山藩兵と共に小林村に在りしが、敵梁取に進みたりとの報を得、戰鬪準備を整へてその來るを待ちしに、晝四ツ時大倉村なる飯山・高遠二藩は使を遣はして、官軍の後方既に敵の爲に占領せられて防戰の術なく、將に只見村に退かんとするが故に、津田隊も亦行動を一にするの利なるに若かざることを忠告せり。津田隊乃ち背進するに決し、七ツ時瀧原村に達し、その半隊と富山藩兵とをして先づ布澤に入らしめき。これより先、津田隊は援兵を野尻に請ひしかば、親兵隊長鳥山堅三は一小隊中の半隊を率ゐて來り會せり。既にして敵の斥候が本道より進むを望みしを以て、鳥山隊は右方山上に登り、津田隊は左方川を渉りて展開し、その一部を本道に殘し、進むこと一町餘にして本道の津田隊先づ敵に向かひて射撃を開始せり。然るに山上の親兵隊は彼等が官兵なることを告げしを以て直に發炮を止めしが、更に進むこと數歩にして、その官兵なりと信ぜしもの突如として我に猛射し、爲に死傷を出すに至れり。因りて親兵殘餘の半隊及び布澤に向かひたる津田隊の半隊・富山藩兵等皆來り援けてこれを驅逐せり。かくて日暮全隊布澤に入り、松明を照らして中向に進みしに、その道程四里に過ぎずといへども險難甚だしくして行歩に艱み、拂曉に至りて部落に入るを得たり。次いで津田隊は二十六日野澤に入りしが、こゝに初めて會津陷落の報に接したるを以て、二十九日新發田に還り、十月十一日その地を發して二十四日金澤に凱旋せり。