始め官軍の北陸道に於いて長岡を陷れし時、東山道に在りては先づ白川を屠り、次いで棚倉・平・三春・中村・二木松等皆降りしが、唯仙臺・米澤・盛岡・庄内の四藩は堅く會津と提携して勢甚だ猖獗なりき。こゝに於いて二道の官軍相合して仙臺を襲はんとせしが、當時白川に在りし參謀伊知地正治・板垣退助等、仙臺が枝葉にして會津を根幹とするが故に、須く斧鉞を根幹に加へなば枝葉自ら凋落すべしとき説を立てしを以て、官軍は一隊を仙臺に派して牽制せしめ、主力を以て若松城に迫るに至れり。是を以て會津軍は奮鬪苦戰せしも獨力能く支ふること能はず、九月二十二日降旗を大手門に樹てしに、官軍は藩侯松平容保を城北瀧澤村の妙國寺に移し、二十三日城中の兵を猪苗代に退かしめ、城外の兵は之を鹽川に置きて謹愼せしめたりき。 かくて叛亂全く鎭定したりしを以て、東征總督府は二十九日令を發し、諸藩の兵出征の前後を以て順次本國に凱旋すべきを命じたりしが、この時加賀藩兵の各地に屯するもの、津田玄蕃の手兵百九十一人・附屬炮隊八十四人は新發田に在り、山村甚之助の隊兵百四人は千手驛に在り、横地秀之進の隊兵九十六人は六日町に在り、青地半四郎の隊兵二百二十四人・附屬炮隊七十四人は十日町に在り、今枝民部の手兵百二十八人・附屬炮隊八十九人は大蘆村に在り、堀悌四郎の隊兵百四人・附屬炮隊四十三人は沼平村に在り、津田權五郎の隊兵二百十八人・附屬炮隊四十六人、杉浦善左衞門の隊兵百九人・附屬炮隊二十四人、太田小又助の隊兵百二十五人、田蓬仙三郎の隊士九十六人は並びに庄内・鶴岡に在りき。上記の内山村甚之助・横地秀之進・堀悌四郎等の諸隊は、戰爭中守備補充として派遣せられたるものなり。その他老臣前田直信の手兵百五十人は、越中泊驛に次して戰線に進むの機を待ちたれども、亂平ぎたるを以て直に師を旅したりき。その後加賀藩は更に編制を改め、駒井清五郎・津田新五郎の二小隊は若松城を守り、寺西梅之助・中村主膳は二小隊を以て若松市中を巡視し、半井全吾・堀悌四郎は二小隊を以て片岡に屯し、横地秀之進・山村甚之功は二小隊を以て坂下を守り、炮四門・炮隊員百三十八人及び監察・軍屬・器械手等百餘人之に屬せり。後又その一部は、十二月捕虜を東京に護送し、一部は翌明治二年正月松代に護送するの任に當る。