藩兵の凱旋せしは遲速一ならず。小川隊の如きは長岡役後八月八日已に金澤に入り、遲きは會津落城後の處分に從ひ翌二年二月に及べり。是等は歸還の後背宴を城中に賜ひ、藩侯自ら臨みて勞を犒ひ、祿を増し金品を賜ふこと各差あり。津田・今枝諸隊に屬する陪臣にありては、亦その主家に於いて賞を行へり。就中津田玄蕃は門地最も高く且つ手兵を率ゐて功を奏すること多かりしを以て、藩侯は特に之に與ふるに感状を以てしたりき。 先般越後出陣、度々被遂苦戰得勝利、國威相立滿足之至に存候。聊爲賞功、指料刀一腰・鞍置馬一疋・金子三千兩遣之候。仍而感状如件。 明治元年十二月廿八日慶事在判 津田玄蕃殿 〔慶應出陣記事〕