明治維新の前後に當り、封建の餘習忽焉として破壞せられ、百度の改廢眞に送迎に暇あらざるの感あり。是に於いて保守の輩多くは之を過激なりとして悦ばず、流言蜚語自らその間に行はれ、之に加ふるに連年秋收豐かならざりしかば、土民往々にして喧騷するものありき。世情此くの如き時に在りて爲政の局に當るもの衆怨の目標となり、竟に命を不慮の禍に殞しゝもの古來その例尠しとせず。加賀藩の老臣本多政均も亦その一人なり。 本多政均は政和の第二子にして、天保九年五月八日を以て生まる。弘化四年九月父政和卒して、長子政通家を嗣ぎしが、安政三年十一月政通も亦卒して子なかりしを以て、弟政均その後を承け、四年十二月從五位下に叙し、播磨守に任ぜられき。文久三年京都騷擾して姊小路公知の刺客に害せらるゝや、六月四日藩侯前田齊泰は政均を遣はして天機を奉伺せしめしに、朝廷直に政均に命じて輦下を護衞せしめ給へり。次いで八月十八日長藩の俄かに入京を禁ぜられし時、政均は手兵を率ゐて中立賣門を守ること七晝夜に及びしが、十月に至り暇を請ひて藩に歸れり。元治元年水戸の浪士武田耕雲齋等兵を率ゐて將に京に入らんとし途越前を過ぎしに、福井藩の老侯松平慶永は援を加賀藩に求めて急に備へんと欲したりしを以て、政均等小松に進みしが偶耕雲齋等の降伏せるを以て師を班せり。慶應二年齊泰退老し、世子慶寧封を嗣ぎ、尋いで十月入京せしとき政均之に從ひ、三年朝廷の慶寧を徴し給ひし時には十一月政均代りて入朝し、次いで十二月慶寧の入洛するに及び、その旨を體して徳川慶喜に二條城に謁し、姑く大坂に退きて人心の緩和を圖り以て宸襟を安んじ奉るべきを勸告せり。明治元年二月齊泰の入京するや政均又之に隨ひて參内し天機を奉伺す。この時藩は時勢の推移に伴ひ制度法規殆ど釐革せざる所なかりしが、政均主としてその議に與れり。初め政均は、幕府の末造國論沸騰して人心恟々たる時より深く濟世治民を念とし、多く論客を集めて時事を議せしめ、以て己に裨益する所あらんとせり。是を以て藩の識者にして政均の門に出入するもの多く、爲に往々人の耳目を惹き、或は政均が黨を援き隱謀を策せんとするなりとして罵詈讒謗を逞くするものありしも、政均は毫も之を意に介することあらざりき。政均の弟に内記政養といふものあり、三千石を領して人持組に班せり。曾て藩に飼育する所の軍馬の數を政均に質しゝに、政均は儼然として、軍事が藩の機密に屬するを以て職責あるにあらざれば之を知るの要なしとて語らざりき。政均思慮の深かりしと同時に他に接して冷靜なること此くの如く、その學術は邃遠ならざるも、豪邁果敢にして時務に活眼あるは能く及ぶ所にあらず。然るに世その人と爲りを誤解するもの多く、彼が執政の上席に在るを嘲りて、『花を見たけれやお席へ御座れ今は南瓜の花盛り』と言ひ、前田直信の彼に代りて政局に當らんことを希望し、『土佐さん早うらと出ておくれ安房餠や次第に手に合はぬ』とも謠ひたりき。お席とは藩の老職が會同する政廳にして、土佐は直信が土佐守なるをいひ、安房は本多氏に累代安房守たりしもの多きを以て言へるなり。是の時に當りて十月行政官令して藩の職制を改めしめしかば、加賀藩は之に隨ひ從來置く所の年寄を廢して執政に代へ、本多政均・前田直信・奧村榮通・村井長在を之に任じたりしが、政均は即ち進歩主義の首領にして、直信は保守主義の棟梁なりしを以て、その間固より扞格なきこと能はざりき。