時に藩士山邊沖右衞門の子沖太郎及び與力井口義平あり。二人は元來從兄弟なるを以て相善かりしが、常に政均の藩政を擅にし私福を張るが故に時事日に非なるものありと信じ、窃かに彼を除かんと欲して友人菅野輔吉及び土屋茂助に謀り、次いで岡野外龜四郎・その弟悌五郎・多賀賢三郎・松原乙七郎・岡山茂等も亦之に與るに至りたりき。是等の中外龜四郎は、沖太郎の擧動粗暴にして所論亦過激、到底大事を爲すに足らずとなし、彼に勸めて藩外に遊學して知見を擴め、その計畫する所にして眞に國事に益あることを知らば徐に之を斷行するも遲しとせざるべきを言ひ、以てその鋭鋒を挫かんと欲し、己先づ笈を東京に負ひ、次いで屢悌五郎を介して忠告を試みたることを後に法廷に於いて主張し、沖太郎等も亦同一の事實を陳述せりといへども、外龜四部が常に弟悌五郎に書を與へてその意志を沖太郎に通ぜしめ、殊に悌五郎が終始同志の會合に列席したりしもの、頗るその體度の不鮮明なるを怪しまざるべからず。賢三郎・乙七郎・茂の徒に至りては、皆自ら憂國の志士を以て任ずる者にして、沖太郎の陰謀を痛快なりとせしこと固より論を待たざるなり。 既にして明治二年六月、前田慶寧は版籍を奉還して藩知事に任ぜられ、大參事をして施政の衝に當らしむることゝなりしかば、沖太郎等は、若し政均の大參事に任ぜらるゝに至らばその專恣必ず舊に倍蓰するものあるべきを以て、速かに斧鉞を彼の首に加へて奸惡を事前に除くに如かずと考へたりき。因りて沖太郎・義平・輔吉・茂の中二人は抽籤によりて政均暗殺の事に當り、他の同志は從來の秕政を藩知事に建言して流弊一洗の爲に力を盡くさんことを約し、七月二十七八日の頃悌五郎の家に會して抽籤を行ひたるに、沖太郎・義平の二人之に當れり。次いで八月二日義平・輔吉・茂助・賢三郎及び杏百太郎は、又悌五郎の家に會して暗殺決行の期を本月六日又は七日の中に於いですべきことを議す。百太郎は義平が文學の師杏敏次郎の子なり。五日沖太郎・義平・輔吉・茂功・悌五郎・茂・乙七郎の七人賢三郎の家に會し、豫め起草せられたる斬奸趣意書を朗讀したる後、酒宴を張りて意氣を壯にし、その歸路に於いて政均を殿中に刺殺するの最も良策なるべきを決したりき。 本多政均寫眞男爵本多政樹氏藏 本多政均写真