沖太郎等兇行の事あるや藩吏等、本多氏が秩祿五萬石の大身にしてその臣隸數百人に及ぶが故に、若し彼等の動搖するに至らば一大事變を生ぜんも測るべからずとなし、石川・河北の二城門を鎖し一切の出入を停めて警戒を嚴にせり。是より先、政均の女壻にして一等上士たる長九郎左衞門成連は既に登城してその室に在りしを以て、慶寧はこれを召して政均横死の顚末を告げ、且つ政均の家臣にしてこの變を聞かば、激昂の餘或は輕擧妄動せんことを虞るゝが故に、直に往きて懇諭を加へ、以て一家の前途を謬るなからしむべきことを命ぜり。成連乃ち旨を奉じて本多氏の邸に至り、その支族本多圖善政醇・同求馬佐政優、政均の弟内記政養・民部政明・松平治部康保、親戚寺西彈正秀武、並に本多氏の家老五人を招き、藩知事の意を傳へて愼重に事を處せしめき。この日薄暮、執政前田直信及び參政前田孝錫は藩知事の使者として本多邸に臨み、嗣子資松に對して弔辭を述べ、又遺領相續の恩命を傳ふ。資松は時に年六歳、後の男爵本多政以是なり。抑藩の制、士人の横死したるものは事の曲直に拘らず一たび家名を斷絶せしめ、然る後更に舊祿の幾分を給せらるゝを法とせしが、今その全領を相續せしめたりしは政均積年の功勳に報いたる所以にして、實に破格の恩典たりしなり。次いで翌八日、藩知事は又親翰を執政に下し、從來行はれたる政治的改革が決して政均一人の意見より出でたるものにあらざることを述べ、今より以後更に種々の新政を施すべきを以て、皆偏執を去りて之を遵奉せざるべからざることを諭したりき。 本多資松 父從五位儀致横死、深く御殘念被思召(慶寧)候。其方始め家中家來共心中御推察被遊候段、家來共へも可申聞旨御意候。 〔本多家記録〕 ○ 本多資松 父從五位儀、重職被仰付置久々勵勤、厚く(慶寧)御依頼被爲在候處、今朝登城之刻於殿中遂横死候段被聞召、御殘懷被思召。依之出格の思召を以て遺知五萬石資松へ相續被仰付、上士上列被指加候。此段可申渡旨被仰渡候事。 〔本多家記録〕 ○ 大政御一新に付而は、朝命を遵奉いたし追々改革に及候處、中には祖宗以來の舊法を無謂相改候樣存違候者茂有之哉、既に昨日本多從五位を及暗殺候始末、全前後の次第をも辨へず、右從五位一己の了簡を以好而新法を行候樣存込候故之儀に候。今般藩知(慶寧)事被仰付、列藩の標的とも可相成樣別段厚蒙叡旨候上者、乍不肖此末右御趣意を奉じ大變革も可申出筈之處、一人たりとも左樣心得違之者有之候而は先以對天朝不相濟儀、且者此方之意を不體政事向之手障に相成、心外至極之事に候之條、此段厚く相心得、心得違無之樣一統へ可被申諭置候也。 巳八月(明治二年) 執政中 〔本多政均遭難始末〕