刺客山邊沖太郁は諱を政勝といひ、その學識は淺かりしといへども、氣魂の雄渾は決して他の追隨を許さゞりき。沖太郎幼かりし時その保姆誤つて地に墮しゝかば、右腕爲に折れて復用ふべからざるに至れり。是を以て沖太郎は左手を以て刀を揮ひ、垣本佐五右衞門を師として堂奧に達し、壯者と伍して未だ曾て敗を取らず。故に不具の身を以て尚廢嫡せられざるを得たり。沖太郎が政均を刺しゝとき、唯一刀にして謬らざりしもの亦之に因るといふ。刑せらるゝ時年二十八。遺詠あり、曰く、『よみぢゆく旅の門出の今はまで忘られはせず國の行末』、又『ひとつだになかりし賤が眞心を君にさゝげて死するうれしさ』 井口義平は幼名を義四郎といひ、義三郎の子なり。垂髫にして父を喪ひ、祖父鐵太郎に育養せらる。鐵太郎人と爲り謹厚にして學を好み、造詣する所淺からず。是を以て義平の庭訓頗る嚴肅なりき。義平稍長じて大島流の槍術を筒井右門に習び、又壯猶舘に入りて英式操銃を學べり。明治元年祖父歿したるを以てその後を享け、秩祿百八十石を食む。是に至りて義平、藩儒杏敏次郎等に就き學を修め、元治志士の事蹟を知りて大に感激する所あり。遂に國事を以て念とし、誤りて政均暗殺の首謀となれり。刑せらるゝ時年二十三。辭世の咏に曰く、『微軀敢献報恩誠。臨死從容心自清。願爲厲鬼亡此賊。長留天上護金城。』又『色も香も皆うちすてゝ一すぢに君がためにとつくす眞ごゝろ』