菅野輔吉は膽大にして氣壯、身體魁梧にして膂力人に勝れり。實は安田敬次郎の子にして、伯父菅野三太郎の後を承く。三太郎曾て昌平黌に學び、頼三樹三郎と莫逆の友たり。是を以て文武兼ね備へ、輔吉を教養すること頗る嚴なりしが、輔吉は學を好まず、頑愚教ふる能はざるものゝ如くなりしかば、三太郎も遂に之を顧みざるに至れり。然るに義父の歿後、輔吉初めてその無學を耻ぢ、藩校に入りて書を讀み、遂に山邊沖太郎・井口義平と交りて政均暗殺の事に加れり。明治四年政均の臣矢部策平等の復讎する所となりて死す。享年二十三。 政均の暗殺せられしより風雨多年、明治四十二年九月十一日朝廷生前の功を賞して從四位を追贈し給へり。是に於いて政均の横死を悲しむの情更に新たなるものあり。大正二年秋本多氏の舊臣を以て組織したる葵園會は銅像をその菩提所なる大乘寺の門前に建設せんことを發起し、三年八月竣工したるを以て、十月十一日除幕式を行へり。銅像の原型は渡邊長男の作にして、岡崎雪聲之を鑄造せり。