二月十九日朝廷加賀藩の献貢米十萬俵を東京軍務官に納入すべきを命じ給ひしが、後改めて壹萬俵は精米を以て大坂に輸さしめ、その餘は代償を以て貢せしめ給へり。葢し新政日尚淺く、政府の收支未だ相償はざりしを以てなり。次いで三月七日車駕東幸の途に上り給ひしを以て、慶寧は半大隊を率ゐて之に從ひ、二十八日に至りて東京に著せり。 四月二十二日天皇大に公卿列侯を會し、詔して國是を定め國運發展の基礎を確立するの方法を諮謁し給ひしに、慶寧もまた入朝して之に與り、五月四日上表して意見を應へ奉れり。その書に曰く、曩者詔命を下して、國是を定め基礎を確立するの方法を垂問し給へり。是を以て臣慶寧蒙昧を顧みず、聊か献芹の微衷を呈し奉らんと欲す。恭しく惟るに、中古以來政權武門に移り、國内封建の態を備ふるに至りしが、今や再び皇上の親政を見るに至りしもの、實に千載の盛事なりといふべく、この際須く古の郡縣に復し以て大に朝威を更張せざるべからず。而もその名稱慣例の如きは固より深く拘泥するの必要なきが故に、宜しく古今の變革を詳かにし、天の時に順ひ人の情に適せしめ、海外萬國に耻ぢざる最善の制度を興し、以て國家の洪基を立つべし。その經營に關する諸件に至りては、公議衆論を盡くし聖斷を以て之を施行し給はゞ、必ずや大成近きに在るべきなりと。