七月三日、天皇曩に大政に關して諮詢し給ひし時、慶寧の會同建議したりし功を賞して御盞を賜ひ、又慶寧の國に就くを許し給へり。八日朝廷は更に官制を改定し、從來の百官並びに受領の號を廢し、位階の四位より初位に至るまでに上下の別あるを止む。是に於いて藩知事以下國守號を稱するもの皆位階を以て呼ぶことゝし、齊泰を正三位といひ、慶寧を正四位といへり。九日又令して、自今慶寧の管内を通行する際警蹕の聲を發すること勿らしむ。十四日慶寧歸國の期將に近きにあるを以て又參朝せしに、天皇詔して從三位に叙し、且つ内殿に於いて近く御前に召し勅して曰く、汝慶寧皇國の爲に厚く心を用ひ、既に藩知事に任ぜられしより專ら朝旨を奉體して黽勉努力せるは、朕の深く嘉奬する所なりといへども、歸藩の後は更に速かに實効を擧げ、列藩の標的たるを期すべしと。慶寧命の辱きを謝して陛辭せり。これより後『列藩の標的』なる語は、金澤藩官民の標語となる。尋いで慶寧はこの月十五日を以て東京を發し、二十九日金澤に入り、八月二十八日書を以て管内の人民に諭告し、版籍奉還直後の重大時期に當り、時勢の推移を洞察して輕擧妄動することなく、各その職務を盡くして朝恩の萬一に報ぜんことを期せしめたりき。九月七日藩の職制を改め、從來の執政・參政を廢し、前田直信・横山政和・岡田正忠[後改棣]を以て大參事たらしめ、前田孝錫[後改晉]・安井顯比を權大參事となし、長成連・篠原一貞を少參事と爲し、成瀬正居・永原孝知を權少參事とし、十五日是等の參事に對して、藩知事を輔佐し勵精施治の功を奏せしめんことを訓諭し、二十二日今上降誕の日に當るを以て第四等以上の藩吏をして出賀せしめたりき。天長節の祝賀是に至りて復興す。 參事中え 今般宇内の形勢を察し版籍及奉還候處、建言之通被聞召、更に蒙藩知事之命不肖其任に不堪、恐懼罷在候。然共天下一般之御改正、謹而遵奉朝命いたし候處、歸藩之節拜龍顏、殊に重き蒙勅諚候。因而追々改革之所置可申出候。就而者、銘々祖先以來多年之大義茂有之事に候へば、同心協力必然の儀には候得共、尚更方今之時勢を察し、予が不肖を補助し、共に藩治の職掌を盡し奉報朝恩度素志に候。於銘々茂時宜事情篤与相辨、一時之變換に不泥、彌勉勵に奏成功度候間、此旨趣不敗失樣有之度候事。 九月(明治二年) 〔舊金澤藩事蹟類纂〕