明治二年氣候順ならずして禾穀熟せず、貢租不納多く、儲穀亦缺乏して價格騰貴し、貧民飢餓に陷るものありしかば、金澤藩は管内三州に令して酒造高を例年の三分の一に減ぜしめ、又米十九萬六千二百六十六石三斗七升四合・稻子千八百三俵・錢五萬六千二貫八百六十五文を賑恤せしが、更に翌三年正月に至り、各官員に令して職俸の半を割きて救急の資に充てしめ、又藩知事慶寧自ら費を割きて之を補はんと欲し、會計の吏北川亥之作に諮る。亥之作對へて曰く、近時支出多岐、經常の費すら尚且つ給する能はず。如何ぞ別に救恤の餘財あるを得んや。若し強ひてその法を講ぜんと欲せば、即ち歴世藏する所の古器珍寳を沽却し、以て若干の資金を得ざるべからず。然れども今にして之を失ふは祖宗の遺愛を重んずる所以にあらざるを以て、恐らくは徒らに言ふべくして行ひ難かるべしと。慶寧之を聞きて曰く、この事眞に易々たり、何の難きことかこれあらんや。抑古器珍寳の如きは、貴は即ち貴なりといへども實は閑餘の玩好に過ぎず。且つ一たび失ふも他日購はんこと必ずしも困難にあらず。宜しく直に決行して皇上赤子の生命を救ふべしと。是に於いて書畫文房具茗器數百点を大坂に輸して之を賣る。管内の士民亦藩知事が仁慈の心深きに感激し、各競ひて金品を義捐せしが、その額米三百四十七石・粟八十六石・金八千四百三兩に及べり。 明治三年正月兵部省令して、諸藩の租入一萬石に對し常備兵一小隊を以て定員となし、總石數に比例して之を編成せしむ。是に於いて金澤藩は從來の銃卒を廢し、歩兵五大隊・砲兵三隊の常備兵を置き、その内若干を地方に分遣することゝせり。 歩兵五大隊 内、一大隊隊士、四大隊兵卒。但兵卒隊の役員は藩士の内にて申付、兵卒は卒族の内にて申付候。 歩兵一大隊人員大隊長一員、大隊補長一員、大隊翼長二員、小隊長八員、半隊長八員、醫官八員、分隊長八員、合圖長一員、旗司二員、銃隊押伍四十員、合圖補長一員、銃隊伍長六十四員、銃兵三百二十員、合圖長二十四員、陣營隊長一員、陣營補長一員、陣營次長四員、陣營附屬八員、輜重隊長一員、輜重補長一員、輜重次長四員、輜重附屬八員、以上五百十六員。 砲兵三隊 内、一隊隊士、二隊兵卒。但兵卒隊役員は、藩士の内にて申付、兵卒は卒族の内にて申付候。 砲兵一隊人員砲隊長一員、砲隊翼長二員、双砲長四員、双砲助一員、彈藥車長一員、單砲長八員、單砲助一員、醫官四員、照準手十一員、砲兵百四十四員[内彈藥車掛三十三員]、合圖兵□□[内合圖補長一員]、以上。 隊長司令土等役員千百六人、隊士人員四百六十四人、兵卒人員千五百六十八人 〔金澤藩兵隊役員等調帳〕 ○ 今般三州常備兵指置候に付、從前取立置候銃卒指止候條夫々申渡、豫而相渡置候小銃等取立、兵器局え可指出候也。 正月十四日(明治三年)藩廳 〔維新以來御達等〕 ○ 二小隊小松 但分大隊□長以上一人 二小隊礪波・射水 二小隊新川 二小隊能登 右常備詰被命、來二月上旬出足之樣。 正月(明治三年)兵制所 〔金澤藩布令留〕