七月藩の陪臣も亦その舊來の地位に從ひて士族と卒族とに分かち、翌八月藩内人民の族籍を調査せしに、華族は一戸にして男三人・女八人、士族は七千七百九十七戸にして男一萬三千九百七人・女一萬四千七百七十六人、卒族は九千七百三戸にして男一萬四千六百五十五人・女一萬二千三百八十三人、中間・小者は二千六百九十九戸にして男三千五百六十七人・女二千三百七十一人を算せり。 仕與力給人中小將小將 右士族え指加候。但、其身召抱候者は一代切、仕與力は非此限。 徒組足輕 右卒族え指加候。 右之通り今般令改革、充行(アテガヒ)方一般之規則を以て正米引直し、士族以上給祿證書追而可相渡候條、夫々申渡、請書取立可指出候。且又支配方當分管轄(舊主人)たるべく、追而士族長等斷次第可引送候也。 庚午七月九日(明治三年)藩廳 〔長氏家譜〕 八月十三日、金澤藩前に人民の官職に因める名を稱するを禁じたるを以て、彈正・民部等の類は漸く之を改めしが、こゝに至りて官職に類似する某兵衞・某太夫・某助・某丞・某進などゝ稱するものも亦之を止めしめき。九月二十三日邸宅服裝に關する舊來の制限を解き、士民皆層樓重屋石舘瓦棟の何たると規模の大小廣狹とを問はず、各その嗜好と便宜とに從ふを許す。この月、太政官改正藩制を布告し、諸藩の租入十五萬石以上なるを大藩、五萬石以上なるを中藩、以下を小藩となし、又一萬石に對して常備兵六十人を置くべく、その兵式は自今佛蘭西の法に從ふべきを令せり。