次いで七月十八日、東京府は舊藩知事前田慶寧に九月中を期して歸京すべしとの官命を傳へ、二十日また東京府より、東京に在る舊藩知事の邸地は本郷邸の西南隅一萬二千六百七十歩を除く外悉く之を官に上納すべき旨を傳へたりき。東京府が前田氏に是等の命を傳へたるは、本年二月太政官によりて、舊諸侯たりし華族の籍は皆之を同府に貫屬せしめられ、慶寧も亦既に東京府華族たりしを以てなり。是に於いて慶寧は、管下加越能三州の士民及び舊領江州今津等の住民に告別し、八月十一日金澤を發し東海道を經て東上の途に就き、次いで九月四日齊泰も亦同じく發駕せしに、父老皆涕泣して之を送れり。五日慶寧東京に著し、十月八日他の舊藩知事等と共に召に應じて參内せしに、華族は四民の上に位し衆庶の標的たるべきものにして、常に輦轂の下に在りて中外の形勢を察し見聞を廣め知識を研くの必要あるを以て特に召還せらるゝに至りしなりとの優旨を傳へ給ひき。 今加賀藩の記述を終るに臨み、例によりて最後の二藩侯の略傳を掲ぐ。