大聖寺藩に關する史實は、今多く之を知る可からず。これ一は加賀藩の附庸にして獨自の重大事件少かりしと、一は維新匇忙の際に於いて藩治の局に當りしもの傳來の簿册を棄却して顧みず、且つ城市屢大聖寺川汎濫の害を被り、民間に在りても亦書卷を失ふの機曾多かりしに因るものゝ如し。 大聖寺藩は前田利治に初る。利治は加賀藩主第三世前田利常の第三子にして、母を徳川秀忠の女天徳院夫人とす。幼名宮松丸。その生誕は元和四年に在るも月日を詳かにせず。唯この年八月六日越中埴生八幡に産前の祈禱を命じたる事實あるが故に、それより以後に在るを知り得べきのみ。五年四月十七日夫人は江沼郡敷地天神社に神寳及び御神樂代を奉る。後に利治がこの地の領主となりしもの、亦奇縁と言はゞ言ふべきなり。 しき地天神御まつり付て被遺覺 一、すみあかなしぢ壹つ 此内 かゞみ一おもてなしぢいゑ(いえ) たゝうかみ三つい まゆつくりつゝみ一つい まゆつくり五つい ひいなはうこ二十二 一、小袖[ぬいはくねもじ]壹かさね 一、とちやうと ん す一つ 一、とちやうきぬ一つ 一、し と ねに し き一つ 一、千疋御はつお 以上 元和五年卯月十七日つぼね 〔菅生石部神社文書〕