寛永十一年十二月十五日利治從四位下に叙し、飛騨守に任ぜられ、松平氏を冐すことを許さる。是を以て子孫奕葉皆松平氏を稱す。十六年六月二十日利常幕府に請ひて、その領江沼郡(那谷村を除く)及び越中中新川郡九ヶ村の地七萬石を頒ち、大聖寺に在りて治を施かしむ。大聖寺は前田氏以前山口宗永の錦城山巓に城を構へたりし所なるが、是に至りて山下に館を構へ、纔かに塀墻を繞らし隍塹を穿ちたるに過ぎす。利治のこゝに封ぜらるゝや、同年十一月二十六日就封の爲に登營して將軍家光に辭見せりといへども、入部の何れの日に在りたりやは亦知るべからず。次いで十七年十月初めて參觀せること天寛日記に見えたり。されば三壺記に十七年十月十二日入部すとし、越登賀三州志に十六年十月十二日に着邑すとするの類、皆誤謬ならずんばあらず。 利治の封に就くや宗藩より分かたれて之に從屬せし士凡べて百六人、その知行合はせて四萬五千石に及ぶ。就中高祿を食みし者に玉井市正の四千石、織田左近・神谷治部・才監物の各三千石、山崎庄兵衞・梶川彌左衞門の各二千石、水野内匠・脇田帶刀の各千五百石、渡邊八右衞門の千二百石を食めるありき。後玉井市正は五千石に進み、織田氏は二千五百石の織部と五百石の八太夫とに分かれ、渡邊八右衞門は千六百石となりしが、水野内匠外二十人と共に、財用繼がざるを以て承應二年之を加賀藩に返還せり。 十月十二日(寛永十七年)に、飛騨守利治公江戸御發駕とぞ聞えける。御家中の士共、去秋より當年にかけて引越、町家に居も有、作事して入もあり。織田左近・玉井市正・脇田帶刀・神谷治部、御家老なり。其外に田丸兵庫助・山崎庄兵衞・梶川彌左衞門・才監物・渡部八右衞門・村井勘十郎(左衞門カ)・佐分利儀兵衞・内田太郎左衞門・樫田主水・前田勘右衞門・猪俣助左衞門・河池才右衞門・深町孫市・岡崎安左衞門、其外の士・與力・歩士等追々に引越す。十月十日(十七年)に大正持大地震ゆり、町家悉く破壞し、押倒され、人馬死する事夥し。武家も家破却して、作事出來せし人は、二度造作に成にけり。其地震金澤までもひゞき、堀・溝の水を道路にゆり上る程の動き也。扨利治公は、御著の日直に吉崎邊へ、御鷹野に出させ給ひて、御入城をぞ被成ける。其翌年江戸御參勤時分迄、御作事御露地等御普請被仰付けり。 〔三壺記〕