第二世利明は利常の第五子にして、寛永十四年金澤に生まる。母は長連龍の女南嶺院。幼名萬吉丸、次いで美濃と稱し、稍長じて大藏と改む。初の諱は利成。萬治二年二月兄利治に養はれてその嗣となり、五月初めて將軍家綱に謁し、十二月二十七日從五位下に叙し、大藏少輔に任ぜらる。三年七月三日封を繼ぎ、八月越中新川郡の領九ヶ村を能美郡六ヶ村と交換せらる。江沼郡那谷村もこの時領内に歸す。寛文元年十二月飛騨守と改め、三年十二月二十八日從四位下に叙し、元祿五年五月十三日江戸邸に卒す、時に年五十六。大機院と諡し、實性院に歸葬す。大正六年十一月十八日利明に正四位を追贈せらる。蓋し産業奬勵の功を賞せられたるなり。利明初め上杉定勝の第三女龜を娶りしが、寛文四年七月二十五日歿して法泉院と諡し、尋いで本多忠義の女勢幾を繼室とせり。勢幾享保四年十二月十八日歿し、慈眼院と諡せらる。 利明は利常の庶子を以て生長し、出でゝ支封を襲げりといへども、氣宇快豁にして頗る堂々の風を備へ、諸士に接するに懇切なりき。利明放鷹に出づるとき、歸路或は卒然として士人の邸に入り、欵語數刻に及ぶことあり。その途上士人に遇ふときは、彼等の徒らに默拜するを喜ばざりき。曾て一士あり、利明を拜せんとするや事唐突に出で、笠紐緊縳して解くこと能はざりしかば、力を極めて笠を引きしに、その臺のみ頭上に殘りたるが、忽ち頭を垂れて侯の健在なるを祝せしに、利明は莞爾笑を忍びて去れり。是を以て諸士皆利明を畏敬すれども亦親愛の念を絶たず、上下否塞の憂なかりき。利明平生文を嗜み武を好み、林道春の門人河野春察を祿して經史を講ぜしめ、山鹿素行の門人たりし高橋某及び千田某を招きて孫呉を説かしめき。又鐵炮鍛冶國友某を近江より召し、城内に留りて大炮を造らしめ、その中最も精巧なるものを擇び、自ら銘を録して震天雷といへり。利明また意を殖産に注ぎ、龍骨車を大坂より得て灌漑に便ぜんと謀り、藩士今井儀右衞門・東野瀬兵衞をしてこれを右村の稻田に試みしめ、山代村に五町歩の地を劃して竹林を造成し、樫實を肥前天草より輸入して大土村に播種し、或は茶實を山城より購ひ、各村の草高に應じて之を分配し培養に努めしめき。寛文五年六月利明命じて大聖寺川の上流より市ノ瀬用水を疏通せしむ。この用水は、寛永二年尚加賀藩領たりし時、城代吉田伊織が下僚久世徳左衞門宗吉に命じて造らしめたるものにして、山代新村の開墾に便ずるを目的とし、設計頗る不完全たるを免れざりしが、利明は更にその規模を擴大したるものにして、引水口の巨巖を穿ちたるも亦この時の工事なるが如し。市ノ瀬用水の灌漑區域は、その大なること現に郡中各用水の第一に居り、農家の之が慶澤に浴すること甚だ多し。延寳元年六月利明城下に於ける大聖寺川の水路迂餘曲折して屢汎濫の害を與へしを以て、新川を開鑿して舊水路を埋めしめ、次いで四年には中田村の農五郎兵衞に足輕小頭栗村茂右衞門を添へて加賀藩領河北郡二俣村に赴き抄紙の法を學ばしめ、これを中田・上原・長谷田・塚谷諸村の副業とせり。是等のこと概ね老臣神谷内膳守政の輔佐畫策せし所に係る。六年利明又内膳をして、片野村の山腰に隧道を通じ、大池の潴水を海に導き水位を低下せしめて沿岸に美田を得、七年更に内膳に命じて矢田野新開の事に從はしめき。内膳乃ち下吏廣橋五太夫を率ゐ、十一月矢田野に赴きて江筋の繩張を開始し、八年二月下旬小手ヶ谷水道の堀鑿に著手して用水の疏通を謀り、八月二十三日草高千八百三十一石二斗一升三合の新開を完成せり。大聖寺の産業にして利明の時に起れるもの實に多しといふべし。 矢田野。延寳七年十一月神谷内膳矢田野へ罷越、廣橋五太夫新開江筋見立繩張す。同八年二月下旬江筋普請初り、八月廿三日成就、矢田野へ水下る。于今八月廿三日矢田野鎭守勅使領寳江山祭禮有、慈光院(大聖寺)罷越相勤。同日夜中村の宮にて角力躍の節御紋付灯燈を燈事於于今昔の通也。○普請成就八月廿三日、勅使村にて角力を取、動橋川を堺に東の方關を取らば、矢田野へ灯燈を可渡、西の方關を取らば大聖寺へ灯燈を引と定。此灯燈は那谷領小手ヶ谷くり貫普請の時、兩方に一張づゝ燈たる灯燈也。偖高塚の大仁藏と云者關を取。夫より于今矢田野祭禮に御紋付灯燈を燈と、村叟云傳。 〔江沼志稿〕