利昌人と爲り君侯の器あり。曾て江戸邸の庭園を修めんと欲し、人をして之が經費を計らしめしに、頗る巨額を要し到底その支辨する能はざる所なりき。而も利昌の之を希望すること甚だしかりしを以て、木村九左衞門等爲に謀りて、毎年内帑の資を割きて蓄積し、數年を經て金百三四十兩に達したりしに、利昌はその成功將に近きにあらんとするを喜べり。然るに偶米價低廉にして諸士大に困窮するに會したりしかば、利昌は直にこれを散じて彼等に頒たしめき。是を以て諸士皆その志の厚きに感じ、大に儉約を實行して負債を生ぜざることを得たりしといふ。 利直は寳永元年六月初めて入部せしこと前にいへる如くなるが、是より先元祿六年七月藩邸燒盡せしを以て、こゝに至りて新殿を造營せしめ、十一月六日移徙の儀を行へり。次いで寳永六年六月第二次の歸邑を爲すや、邸内大聖寺川の畔に大亭榭を起し、十一月二日上棟す。これ所謂川端御亭にして後に長流亭と稱し、今に存す。規模敢へて壯大ならずといへども、結構雅致に富むを以て昭和九年一月三十日國寳建造物に指定せられたり。その棟札にして發見せられたるもの左の如し。 御祈禱現那谷法印密啓 御奉行[大井佐五右衞門田中十左衞門] 梵字[南無堅牢地神與諸眷屬南無五帝龍王侍者眷屬]寳永六年十一月二日 大工塚本吉右衞門 大工國本小兵衞 〔長流亭棟札〕