利直に次ぎて大聖寺藩主となりしを利章とす。實は加賀藩主第五世綱紀の第五子にして、母はその臣津田康政の女保壽院とし、元祿四年三月十六日金澤に生まる。利章は幼名を富五郎といひしが、寳永四年七月十日富丸と改め、翌十一日また造酒丞と改む。五年三月將軍綱吉に謁し、十二月十八日從五位下に叙し、備後守に任ぜらる。次いで七年十二月利直病に寢したるを以て養ひて嗣となし、正徳元年正月二十九日その遺領を受く。利章乃ちこの年九月を以て初めて入部せり。 初め第三世利直の世に在りし時、元祿十六年十一月二十九日江戸邸災に罹り、且つ同年領内凶歉に會し財用甚だ匱乏せるを以て、その再造せし所のもの頗る狹少粗朴なるを免れざりき。既にして利章宗藩より來りて封を襲ぎ、江戸邸の改築を欲するの意極めて切なるものありしが、その資を有せざりしを以て父綱紀に請ひて遂行せんと冀へり。偶綱紀利章の邸に臨む。侍臣皆利章に慫慂して曰く、これ好機なり逸すべからずと。綱紀殿中に入りて房室を巡覽し、利章その後に從ふ。綱紀曰く、殿閣の簡素愛すべく汝の居るに適す。謹みて之を毀損する勿れと。利章唯々し、侍臣の背後に在るもの、利章の袖を引きて促がしゝも、遂にその請を述ぶること能はざりき。綱紀の歸りし後、利章侍臣に告げて曰く、余が素志の遂ぐる能はざりしは眞に憾とすべし。然れども老侯の言理に中るを以て、我は終に口を聞くこと能はざりしなりと。是より後節儉を以て自ら守れり。綱紀の利章を導くこと甚だ嚴、親子の私情を抑制して人君の徳を成さしめんと努めたるもの概ねこの類にして、利章も亦能くその教に從ひたりしなり。 備後守(利章)樣大聖寺より御出(金澤ヘ)、或年の暮極月二十日過まで御逗留被成候。もはや押つめ候間追付御歸被成、御在所の御仕置等被仰渡可然旨被仰進、明日御歸と申に相極候處、其夜雪になり一尺五六寸もつもり申候處、翌朝御附齋藤武左衞門御次へ罷出、御近習頭青木武左衞門を以、備後守樣今日御歸可被成と思召候處、よほどの雪になり候故途中難被爲成候間、今少御見合せ可被成由被仰進、其段達御聽候處、これ程(綱紀)の雪に付被爲成まじきとは如何の御事候哉、戰國の時分にて敵のおこり候由注進有之候而もならせられまじく候哉、御手ぬるき御事の由可申上旨被仰出、武左衞門もおどろき罷歸候。其日の翌朝御歸被成候。御手づよき御事の由何もおどろき申候。右の御取次は私相勤(中村典膳)申候。 〔中村典膳筆記松雲公夜話追加〕