正徳二年八月十日大風ありて作物を害ふこと甚だしかりしかば、農民等同月末より十村・肝煎を以て免切の訴を藩廳に致しゝこと屢なりき。因りて藩は立毛見立役として大目付堀三郎左衞門[二百石]・郡奉行前川宇右衞門[二百五十石]・守岡新右衞門[二百石]・郡目付齋藤四兵衞[七十石]・那古屋作左衞門[五十石]を命じ、十村を隨行せしめ、九月十八日より上木・永井・瀬越・吉崎・鹽屋等より見立に着手せしが、被害意外に大ならずとして免切を許さゞることに決せり。農民等之を聞きて大に怒り、十月六日三郎左衞門・新右衞門・四兵衞・作左衞門が那谷村の肝煎權四郎方に、宇右衞門が同村不動院に宿泊したるを襲ひしに、諸士は悉く裏口より逃走し、觀音山の後なる三光院に入り、作左衞門をして之を大聖寺に急報せしめき。是に於いて藩は勘定頭宮部新兵衞[三百五十石]・吉田庄市郎[二百石]に大目付渡邊治兵衞を副へて那谷に向かはしめしに、三士は花王院に入りて各村の肝煎を招き、その要求する四分上納六分免切の請を容れ、彼等の騷擾せざらんことを戒めて引取らしめ、八日足輕十人・小頭二人を派して先に出張せる諸士を大聖寺に迎へて謹愼を命じ、十日堀三郎左衞門を江戸に急行せしめて事情を報告せり。是より先七日一揆等免切の公約を得て大に喜びて曰く、當作に關する願意は既に達するを得たり。今より更に奸曲の徒に報ずる所あらんと。乃ち串村の茶問屋甚四郎の家に押寄せて之を破壞し、次いで本陣を勅使村の願成寺に置き、八日山代の河原屋安右衞門・山中の堀口猪右衞門の家を破壞す。是等は曩に茶・紙の運上過役を徴せしによる。この騷擾の結果として、藩は貸米一萬二千餘石、免切用捨米二千餘石を行ひ、而して暴動者に至りては直接之を罰せず、翌年に至り他の罪名を以て之を刑せり。