正徳三年八月十五日前田利章江戸を發し、二十五日金澤に着、二十六日金澤を發して歸邑の途に着けり。この日神谷内膳守應は加賀藩の老臣より城内越後屋敷に招かれ、その家老職を除きて金澤に滯留することを命ぜらる。守應は内膳守政の子なり。是より先守應、藩が諸士に貸附したる拜借金の返還を強要せしを以て、諸士等之を憎み、守應の歸邑を待ちて之を害せんとしたるに依る。是より加賀藩は大聖寺の家老佐分舍人・生駒源五兵衞以下を、代る〱金澤に招致して事情を質し誓詞を徴し、翌四年に至り借知返還の法を緩にし、七月十九日守應の逼塞を赦免して事漸く落着す。五年九月守應隱居を命ぜられ、十二月その子太郎助を加賀藩臣として守應の知行二千五百石の中千石を與へ、守應の隱居知として五百石を給せり。太郎助は後の藏人守周なり。 利章は享保元年十二月十八日從四位下に陞りしが、當時藩の財政が益悲觀の状にありしこと、之を綱紀が大聖寺藩の老臣山崎權丞に與へたる左記の指令によりて窺ひ知るべし。この文書は何れの年紀に係るかを詳かにせざるも、享保四年利明の後室慈眼院逝去より後にして、八年綱紀讓國より前に在るべきものなり。利章の此くの如き事情に在りしもの、固より種々の原因あるべしといへども、内には利章自ら政に倦み、當時加賀藩より派遣せられし青地齊賢の手記に、利章が藩内を鑓・長刀を携へず、近習數輩兩刀を帶せずして隨從し、將棋その他の遊藝に耽り、藩臣の家に宴遊して夜を徹するに至りたりといふを以て知るべし。特に利章の近臣に野口兵部といふものあり。利章の金澤に在りし時側小姓に身を起し、大聖寺に從うて正徳五年新知百七十石を受け、漸く祿を増して享保十七年千石に至りしが、殊遇に慣れて主君に對する禮を備へず、爲に加賀藩の老臣奧村伊豫守有輝の來りて利章を苦諫するに至りたりき。而して利章が享保十七年閏五月江戸城虎之門の修築を命ぜられたるは、益その財政を紊亂せしめたりしこと言を待たず。利章元文二年九月六日享年四十七を以て領邑に卒す。諡して正智院といひ、實性院に葬る。未だ正妻を娶らざりしを以て、その子女は悉く側室より出でたり。 今般歸府に付而大抵心得之儀、備後守(利章)え以紙面申聞候。然者頃年勝手方不如意候故、家督以後御老中請待茂無之、此段別而如何敷存候。圓通院(利直)殿時分者萬端費申儀多候得共、唯今のごとく不如意之沙汰無之候。先代与替り、公儀御普請茂不被仰付、今程者慈眼院(利明夫人)殿入用茂無之、眞源院(利昌)殿分知茂被返下候間、諸事心安、勝手可相調儀候處、存之外在江戸家來共之扶持方さへ相滯、世間取沙汰茂不宜事、其許役人共諸事申付樣油斷千萬候條、此方(加賀藩)より當分役人共遣置、萬端費無之、勝手方取續候樣に可申付と、先達而其段申聞候得共、備後守所存難計、其上在府之間茂無之候故令延引候。今般在邑之内、其方中はじめ、役人ども屹度遂僉議、無益之費を省き簡略專要に候。若至來春候ても其詮無之、勝手手間候はゞ、備後守存寄次第手前役人共差越、諸事僉議可申付候。此段同役中え茂可有示談候。以上。 十月七日宰相(綱紀) 山崎權丞殿 〔大聖寺山崎氏文書〕