利章の嫡男利道第五世の藩主となる。利道の母は家臣内藤友眞の女にして、享保十八年四月二十四日江戸に生まれ、幼名を造酒丞といひ、元文二年十月二十七日父の遺領を襲ぎしが、時に齡甫めて五歳なりしを以て、未だ柳營に上ること能はず、延享二年二月に至り初めて將軍吉宗に謁したりき。四年十二月十九日利道從五位下に叙し、壹岐守に任ぜられ、寛延二年五月初めて入部し、三年四月二十五日備後守と稱し、寳暦四年十二月十八日從四位下に陞る。次いで安永七年五月二十五日疾を以て致仕し、七月四日遠江守と改め、天明元年正月十四日卒す、年四十九。顯照院と諡し、實性院に歸葬す。利道富山侯前田利隆の女を娶りしが、寳暦八年二月二十八日利道に先だちて歿し、寳光院と諡せらる。寳光院は嫡男利貞を擧げしが夭亡したるを以て、庶子利精に家を繼がしめ、その弟利以は七日市侯を襲ぎ、利幹は富山侯利謙の嗣となる。大聖寺藩侯の血族、加賀三支藩の主となりしもの實に盛なりといふべし。 利道の世は災害續發せり。利道襲封の後幾くもなく元文三年正月二十九日江戸の上屋敷類燒し、寳暦元年十一月には幕府より三河吉田橋の修築を命ぜられ、二年五月竣成せしが、工事の不完全なるを以て三年七月再架を命ぜられたることあり。六年五月弓波村を中心として農民の一揆勃發し、八年二月二十二日大聖寺に大火あり、十年二月七日再び千二百戸を燒失して復興頗る困難を極め、明和五年四月二日隣境越前吉崎に起りたる暴民に大聖寺領の者多數參加して騷擾せしことあり。安永九年の秋領内亦不作なりしを以て百姓等免切を請ひしも許されず、毛合村の源六といふ者の主唱によりて十一月一揆を起さんとしたるが、謀漏れて關係者の逮捕所罰を見たることありしの類皆是なり。