第六世利精は利道の第二子にして、母は加賀藩の臣加藤景慶の女なり。寳暦八年十一月十五日大聖寺に生まれ、幼名を勇之助といふ。九年十二月兄利貞歿したるを以て、利道は十年五月二日幕府に請ひて利精を嗣子となし、名を造酒丞と改めしめたり。利精安永三年九月を以て江戸に抵り、四年十一月將軍家治に謁し、六年十二月十八日從五位下に叙し、美作守に任ぜられ、七年五月二十五日家を襲ぎ、七月四日改めて備後守と稱し、八年五月初めて入部せり。利精の江戸に在りし時屢北廓に遊興し、その從ふる所の士皆武に練熟するものを擇び、時に或は無頼の徒と鬪諍を構へしことあり。是を以て巷間頗る利精の放恣を傳ふ。加賀侯前田治脩戒飭を加へしも改めず。因りて利精心疾に罹りて治務を執る能はずと稱し、天明二年五月四日使者横濱善左衞門・山森澤右衞門等を大聖寺に遣はし、利精を一室に監し、八月二十一日致仕を許され、六年四月十四日又命じて金澤之移らしめき。已にして寛政三年五月二十一日利精大聖寺に歸り、その年九月十五日時疫を以て卒せり。齡三十四。高瀬院と諡し、實性院に葬る。利精未だ正室を迎ふることなかりしも、子女は即ちこれあり。 五月三日(天明二年)大聖寺え御家老(加賀藩)前田圖書殿・御馬廻遠田三郎太夫・御近習御用組頭並横濱善方衞門・御表小將御番頭山森澤右衞門・大聖寺御横目大小將庄田要人各發足。但朔日夫々被仰渡。同月七日各歸席。同日より御先筒頭多田逸角・御使番堀平次右衞門・團七兵衞爲御横目相詰。右御用之趣は、横濱者御名代に而御舘御書院正面に着座、備後守樣は下之方に御着座に而、御不行状之趣共一々申上、御腹立(治脩)不少候。依之御保養所え可有御入段御意之趣申上。于時圖書殿、御帶刀御渡被成候樣申上候所え、遠田進寄、私え御渡与申上、請取之上、直に御舘之再三間四方之御間圍え奉押入与云女。御不行状之趣共著、第一御酒狂に而御短慮等色々御不愼有之由、區々説雖有之不詳に付不記之。 〔政鄰記〕 ○ 横濱善左衞門・山森澤右衞門を以備後守樣え可被仰進趣。 去春以來御所業之儀に付、毎度加賀守(治脩)樣より以御直書被仰進候趣も候得共、聊以御改之御樣子不被爲在候。右御所業之御樣子、江戸表御門外に而風聞喧躰、於殿中取沙汰甚敷、其上御老中方御噂之趣も被思召、彼是以御家之御大事、甚御心勞至極被成候。段々御所業之御樣子に而者、畢竟御病氣与被思召候付、御公務等難被爲成御儀被思召候。依之御病氣被仰立、御本家樣より御引取、御隱居御願被成候御内意に御座候に付、御保養中御仕置方之儀被加御下知候。 〔備後守利精隱居一件〕