第七世利物は、利道の第三子にして、利精の同母弟なり。寳暦十年正月十七日大聖寺に生まる。幼名虎次郎、後安永三年正月十六日主水と改む。天明二年兄利精の將に致仕せんとするや、その庶子皆幼なりしを以て、幕府に請ひて八月二十一日家を利物に讓りき。十月朔日利物家督の禮を行ひ、十二月十八日從五位下に叙し、美濃守に任ぜられ、四年五月入部せしが、幾くもなく八年九月二十七日齡二十九を以て江戸の邸に卒せり。豐成院と諡し、實性院に歸葬す。利物は富山侯前田利幸の女を娶りしが、文化二年四月十三日歿し、桐陽院と諡せらる。 利精の長子利考第八世の主となる。母は家臣西島某の女にして、安永八年正月十日江戸に生まれ、大聖寺に育せらる。幼名を勇之助といひ、天明八年利物の嗣となる。利物卒するに及び江戸に至り、十二月二十七日封を襲ぎしが、時に甫めて十歳なるを以て未だ將軍に謁する能はざりき。寛政四年九月利考初めて柳營に登りて將軍家齊に謁し、十二月十六日從五位下に叙し、飛騨守に任ぜられ、翌五年五月入部せり。次いで十年十二月十六日從四位下に陞りしが、文化二年十二月二十五日齡二十七歳を以て江戸邸に卒し、峻徳院と諡し、實性院に葬らる。利考新發田侯溝口直信の女を娶りしが、安政二年九月十日歿し、峻光院と諡す。 一、文化二年閏八月頃より公御(利考)煩ひ被遊、次第に御重らせられ候へども、十一月十五日には推て御登城被遊、その後一方ならぬ御樣子なりけるに、十二月八日より表の御住居と被仰出、御看病は御近習頭笠間亨・東方屯、御近習侍木村繁・岡川遠・奧村司、悉皆男子のみにて御看病申上げ、女中は一人も罷出申こと御許し不被遊。峻光院樣御願遊ばされ、折々御看病に御出遊ばされ候も、殊之外御禮儀合正敷、老女岩瀬御居間の口迄御供仕り、御居間の内へは入候こと堅く相成不申よし。 一、公御病氣重らせ給ひ候時、表へ御出と有之時、何れもかく御大病の節、御奧にて御養生被遊候てこそ、何事も御心樂に可有に、表にては男子のみにて、何かに物事こは〲しからんと申上ければ、公の仰には、いやとよ廣式の女共は一作の雇奉公人なり、汝等は譜代の者共なり。予もかく大病にて存命の程もはかりがたし。譜代の者の看病をうけて死なば、此上の安心なかるべしと仰らる。 〔温樹秘録〕