大聖寺に在りては、利章以來數世の間、上下太平に狃れて偸安風を爲し、士人文武の何たるを忘れたるもの多かりき。是を以て藩の政治素より萎靡して振はず。利考居常これに慨然たりしが、年尚幼なるを以て志を蓄へて敢へて發せざりき。然るにその壯なるに及びて政を親らするや、號令嚴肅を極め、剛直の士を拔擢して近侍に任ぜしかば、士卒爭ひて文を講じ武を練り、直諫を納るゝ者隨ひて多く、風俗爲めに一變するに至れり。利考學問を好み、その江戸邸に在るの日には、常に泉豐洲を聘して業を受けたりき。豐洲は紀徳民の高足にして、講餘上杉治憲の政績を語るを常とせしに、利考は之を聞きて大に喜び、近侍をして悉く豐洲の言を筆記せしめたりしといふ。利考の政を執りし初、士民多く之を誹る者あり。或人之を利考に告げしに、利考曰く、我れ聞く備前侯光政の治を施くや、初め國人皆之を憎み、敢へてその肉を得て啖はんと欲するに至れりと。今我が士民の我を喜ばざるもの此くの如く甚だしきものあらず。然れば則ち尚未だ我が嚴肅を緩くすべからざるなりと。蓋し利考の意、猛を以て始め寛を以て功を遂げんと欲するに在り。故を以て、心に治憲を敬慕すといへども行は光政を模範とせり。その諫箱を舘前に掛け、日を期して之を開き、以て廣く民意を聽きしが如きは、備藩典刑録に據るといふ。唯その天壽久しからずして能く志を就すこと能はざりしも、藩人の英主を擧ぐるもの、後世必ず利考を以て稱首とせり。利考訓戒の書亦今に傳へらる。